平家これをば夢にも知り給はず、「興福園城両寺は、鬱憤を含める折節なれば、語らふともよも靡なびかじ。当家は山門において、いまだ仇を結ばず。山門また当家のために不忠を存ぜず。詮ずるところ、山王大師に祈誓申して、三千の衆徒を語らはばや」とて、一門の公卿十人、同心連署の願書を書いて、山門へ送らる。その願書にいはく、「敬つて申す。延暦寺をもつて氏寺に準じ、日吉の社をもつて氏社として、一向天台の仏法を仰ぐべきこと。右当家一族の輩、殊に祈誓することあり。旨趣いかんとなれば、叡山はこれ桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝の後、円頓の教法をこの所に広め、遮那の大戒をその内に伝へてよりこの方、専ら仏法繁昌の霊窟として、久しく鎮護国家の道場に備ふ。
平家は山門(比叡山)が木曽義仲に同心したことを夢にも知らず、「興福寺(奈良県奈良市にある寺)園城寺(滋賀県大津市にある寺)両寺は、鬱憤を募らせているだろうから、同心せよと申しても靡くことはないであろう。当家は山門の、敵となったことはない。山門もまた当家に不忠を働いたこともない。考えるところ、山王大師([山王権現]=[滋賀県大津市にある日吉大社の祭神])に祈誓([神仏にいのって誓いを立てること])すると申して、三千人の衆徒([僧])を仲間に引き入れよう」と、平家一門の公卿十人が、心一つに連署した願書([神仏に対する願いを記した文書])を書いて、山門に送りました。その願書には、「敬って申す。平家一門は延暦寺を氏寺として扱い、日吉神社を氏社として、ひたすら天台宗の仏法を敬います。以上の通り当家一族の者たちは、とりわけ祈誓することがあります。山門に祈誓する訳は、比叡山は桓武天皇(第五十代天皇)の時代、伝教大師(最澄)が遣唐使として入唐帰朝の後、円頓([円満頓足]=[天台宗の教義])の教法をその場所に広め、毘盧遮那仏([大乗仏教で、身光・智光の大光明で全宇宙を照らす仏。天台宗では法身仏])の大戒をそのうちに広めてより、ひらすら仏法を栄えさせた霊窟([神仏を祭った岩屋])として、永く鎮護国家([仏教によって国家を鎮め護ること])の道場([仏道修行の場所])故であるからです。
(続く)