よつて一門の公卿ら、異口同音に礼をなして、祈誓件の如し。従三位行兼越前の守平の朝臣通盛、従三位行兼右近衛の中将平の朝臣資盛、正三位行右近衛の中将兼伊予の守平の朝臣維盛、正三位行左近衛の権の中将兼播磨の守平の朝臣重衡、正三位行衛門の督兼近江遠江の守平の朝臣清宗、参議正三位皇太后宮の権の大夫兼修理の大夫加賀越中の守平の朝臣経盛、従二位行中納言征夷大将軍兼左兵衛の督平の朝臣知盛、従二位行権中納言兼肥前の守平の朝臣教盛、従二位行権大納言兼陸奥出羽按察使平の朝臣頼盛、従一位前の内大臣平の朝臣宗盛。寿永二年七月五日の日、敬つて申す」とぞ書かれたる。貫主これを哀れみ給ひて、左右なう衆徒に披露もし給はず、十禅師権現の社壇に籠め、三日加持して、その後衆徒に披露せらる。初めはありとも見えざりける願書の上巻に、歌こそ一首出で来たれ。
平らかに 花咲く宿も 年経れば 西へ傾く 月とこそ見れ
山王大師これを
哀れみ給ひて、三千の
衆徒力を合はせよとなり。されど
年来日来の振る舞ひ
神慮にも
違ひ、
人望にも背きぬれば、祈れども叶はず、語らへども
靡かざりけり。
大衆もまことにさこそはと、事の
体をば哀れみけれども、源氏
合力の
返牒を送りぬる
上は、今また
軽々しく、その儀を
翻すに及ばねば、これを許容する
衆徒もなし。
よって平家一門の公卿たち、異口同音に山門(比叡山)に礼拝し、祈誓([神仏にいのって誓いを立てること])は以上の通りです。従三位行兼越前守平朝臣通盛(平通盛。清盛の弟教盛の嫡男)、従三位行兼右近衛中将平朝臣資盛(平資盛。清盛の嫡男重盛の次男)、正三位行右近衛中将兼伊予守平の朝臣維盛(平維盛。清盛の嫡男重盛の嫡男)、正三位行左近衛権中将兼播磨守平朝臣重衡(平重衡。清盛の五男)、正三位行衛門督兼近江遠江守平朝臣清宗(平清宗。清盛の三男宗盛の嫡男)、参議正三位皇太后宮権大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣経盛(平経盛。清盛の弟)、従二位行中納言征夷大将軍兼左兵衛督平朝臣知盛(平知盛。清盛の四男)、従二位行権中納言兼肥前守平の朝臣教盛(平教盛。清盛の弟)、従二位行権大納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛(平頼盛。清盛の弟)、従一位前内大臣平朝臣宗盛(平宗盛。清盛の三男)。寿永二年(1183)七月五日、敬って申す」と書いてありました。貫主(天台座主。明雲)は平家を哀れんで、すみやかに衆徒([僧])に披露することなく、十禅師権現([日吉山王七社権現の一])の社壇([社殿])に籠めて、三日間加持([祈祷])して、その後衆徒に披露しました。はじめはあると見えなかった願書の上巻([書状を上から包む白い紙])に、歌が一首ありました。
平穏で花が咲く宿と思っていた平家ですが、年を経て、西に傾く月になってしまいました。
山王大師([山王権現]=[日吉大社の祭神])もこれを哀れみ、三千人の衆徒に力を合わせよと願う歌でした。けれども年来日来の平家の振る舞いは神慮([神のおぼしめし])に背き、人望([人々から慕い仰がれること])も失っていたので、祈るとも叶わず、語らうとも平家に靡くことはありませんでした。大衆も本当に、平家を哀れに思いましたが、源氏に力を合わせる返牒([返書])を送った上は、今また軽々しく、その決定を翻すわけにはいかなくて、平家に従う衆徒はいませんでした。
(続く)