さて経正御前を罷り出でられけるに、数輩の童形、出世者、坊官、侍僧にいたるまで、経正の名残りを惜しみ、袂にすがり涙を流し、袖を濡らさぬはなかりけり。中にも幼少の時、小師でおはせし大納言の法印行慶と申ししは、葉室の大納言光頼の卿の御子なり。あまりに名残りを惜しみ参らせて、桂川の傍までうち送り、それより暇請うて帰られけるが、法印泣く泣くかうぞ思ひ続け給ふ。
あはれなり 老いき若きも 山桜 遅れ先立ち 花は残らじ
経正の返事に、
旅衣 夜な夜な袖を 片敷きて 思へば我は 遠く行きなむ
さて巻いて持たせられたりける赤旗、ざつとさし上げたれば、あそこここに控へ控へ待ち奉る
侍ども、あはやとて馳せ集まり、その勢百騎ばかり
鞭を上げ、駒を速めて、ほどなく
行幸に追つ付き奉らる。
経正(平経正。清盛の弟経盛の嫡男)が後白河院の御前を出ようとすると、たくさんの童形([まだ結髪していない少年])、出世者([持仏堂などの法事を勤める僧])、坊官([院家に仕え、事務に当たった在俗の僧])、侍僧([侍法師]=[院家に仕えて、警固や雑務に当たった法師])にいたるまで、経正との別れを惜しんで、袂にすがり涙を流して、袖を濡らさない者はいませんでした。中でも経正が幼少の頃、小師([まだ師を離れていない僧])であった大納言法師行慶と言う、葉室大納言光頼卿(藤原光頼)の子がいました(行慶は白河院の子でしたが、この時すでに亡くなっています。白河院の子行慶と別人だとして、光頼の子にそれらしき人物は見当たりません。謎です)。行慶はあまりにも別れを惜しんで、桂川(仁和寺を南下したとして、ちょうど平安京の南端あたりでしょうか)の傍まで見送り、そこから別れて帰りましたが、法印は泣く泣くこう思い続けました。
悲しいことです。老いも若き(老い木若木)も山桜が遅れ先立ち花を咲かせ散ってゆくように、平家の者たちも相前後して都を出て、誰もいなくなってしまいました。
経正の返事に、
わたしは旅衣を着て、夜な夜な袖を片敷いて一人寂しく寝ることになりました。都を思い出しては、こんなに遠く離れてしまったものだと思うばかりです。
経正が巻いて持たせた赤旗(赤旗は平家の印)を、さっとさし上げると、ここかしこに控えて待っていた侍たちは、今この時と急ぎ集まって、その勢百騎ばかりで鞭を打ち、馬を速めて、ほどなく行幸(安徳天皇)に追い付きました。
(続く)