修理の大夫経盛、
ふるさとを 焼け野が原と 返りみて 末も煙の 波路をぞゆく
まことに
故郷をば、
一片の
煙塵に隔てつつ、
前途万里の
雲路に赴かれけん、心の内推し量られて
哀れなり。肥後の
守貞能は、
河尻に源氏待つと聞いて、蹴散らさんとて、その勢
五百余騎で
発向したりけるが、
僻事なればとて取つて
返して上るほどに、
鵜殿の
辺にて
行幸に
参り合ひ、急ぎ
馬より飛んで下り、
大臣殿の御
前に
参り畏まつて、「あな心憂や、こはいづちへとて渡らせ給ひ候ふやらん。西国へ下らせ給ひたらば、
落人とて、あそこここにて討ち漏らされて、憂き名を流させましまさんこと、口
惜しう候ふべし。ただ都の内にて、いかにもならせ給ふべうもや候ふらん」と
申しければ、
大臣殿、「
貞能はいまだ知らぬか。木曽すでに北国より五万余騎で攻め上り、比叡
山東
坂本に満ち満ちたり。
法皇も過ぎし夜半に、失せさせ給ひぬ。人々は都の内にていかにもならんと申し合はれけれども、まのあたり
女院、
二位殿に憂き目を見せ
参らせんも、我が身ながら口惜しければ、せめて
行幸ばかりをもなし奉り、各々をも引き具して、西国の方へ落ち下り、一先づもと思ふぞかし」とのたまへば、「さ候はば、
貞能は身の
暇を
賜つて、都の内にていかにもなり
候はん」とて、召し具したりける五百余騎の勢をば、小松殿の
公達たちに付け
参らせ、手勢三十騎ばかり都へ取つて
返す。
修理大夫経盛(清盛の異母弟)は、
ふるさとが焼け野原になっていくのをふり返りながら、わたしは煙が流れてゆく先にある波路に逃れて行くのだなあ。
まさに故郷は、わずかばかりの煙と塵になり果てて、遠く万里の雲路に今から赴く、心の内が推し量られて哀れでした。肥後守貞能(平貞能)は、河尻(摂津国神崎川河口部にあった古代の港。今の兵庫県尼崎市あたり)で源氏が待ちかまえていると聞いたので、兵どもを蹴散らすために、その勢五百騎余りで出て行きましたが、僻事([嘘])だったので兵を返して京に上るところに、鵜殿(今の大阪府高槻市)あたりで行幸([天皇が外出すること])に出合いました、貞能は急ぎ馬から飛んで下りて、大臣殿(平
宗盛。清盛の三男)の御前に参り畏まって、「ああ嘆かわしい、大臣殿はいったいどちらへ行かれるおつもりですか。西国へ下れば、落人となって、あちらこちらで討ち漏らされて、憂き名を流されるのも、悲しいことです。ただ都の内に留まり、いかにでもと思いますが」と申すと、大臣殿(平
宗盛。清盛の三男)は、「貞能(平貞能)はまだ知っておらぬか。木曽(義仲)はすでに北国より五万騎余りで都に攻め上り、比叡山東坂本(今の滋賀県大津市。延暦寺の門前)には兵が満ち溢れておるそうじゃ。法皇(後白河院)も昨夜半に、都から出ていかれた。都の者たちは都の内でどうにでもなれと申し合っておるが、目前にして女院(建礼門院。安徳天皇の生母で清盛の娘
徳子)、二位殿(清盛の正室。
時子)に悲しい目を見せるのも、わたしとしては辛いことであり、せめて行幸([天皇が外出すること])だけは成し遂げて、女院二位殿もお連れして、西国へ落ちて、一先ず落ちつこうと思うのだ」と申すと、「そうでございましたか、ならばわたし貞能(平貞能)は暇を賜って、都の内でなんとかいたしましょう」と言って、連れていた五百騎余りの勢を、小松殿(平
重盛。清盛の嫡男)の公達(重盛の子、
維盛、
資盛ら)に預けて、手勢三十騎ばかりで都に戻って行きました。
(続く)