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「平家物語」一門都落(その5)

修理しゆり大夫だいぶ経盛つねもり

ふるさとを 焼け野が原と 返りみて 末も煙の 波路をぞゆく

まことに故郷こきやうをば、一片いつぺん煙塵えんぢんに隔てつつ、前途万里せんどばんり雲路うんろに赴かれけん、心の内推し量られてあはれなり。肥後のかみ貞能さだよしは、河尻かはじりに源氏待つと聞いて、蹴散らさんとて、その勢五百ごひやく余騎で発向はつかうしたりけるが、僻事ひがごとなればとて取つてかへして上るほどに、鵜殿うどのへんにて行幸ぎやうがうまゐり合ひ、急ぎむまより飛んで下り、大臣殿おほいとのの御まへまゐり畏まつて、「あな心憂や、こはいづちへとて渡らせ給ひ候ふやらん。西国へ下らせ給ひたらば、落人おちうととて、あそこここにて討ち漏らされて、憂き名を流させましまさんこと、口しう候ふべし。ただ都の内にて、いかにもならせ給ふべうもや候ふらん」とまうしければ、大臣殿おほいとの、「貞能さだよしはいまだ知らぬか。木曽すでに北国より五万余騎で攻め上り、比叡さん坂本ざかもとに満ち満ちたり。法皇ほふわうも過ぎし夜半に、失せさせ給ひぬ。人々は都の内にていかにもならんと申し合はれけれども、まのあたり女院にようゐん二位にゐ殿に憂き目を見せまゐらせんも、我が身ながら口惜しければ、せめて行幸ぎやうがうばかりをもなし奉り、各々をも引き具して、西国の方へ落ち下り、一先づもと思ふぞかし」とのたまへば、「さ候はば、貞能さだよしは身のいとまたまはつて、都の内にていかにもなりさふらはん」とて、召し具したりける五百余騎の勢をば、小松殿の公達きんだちたちに付けまゐらせ、手勢三十騎ばかり都へ取つてかへす。




修理大夫経盛(清盛の異母弟)は、

ふるさとが焼け野原になっていくのをふり返りながら、わたしは煙が流れてゆく先にある波路に逃れて行くのだなあ。

まさに故郷は、わずかばかりの煙と塵になり果てて、遠く万里の雲路に今から赴く、心の内が推し量られて哀れでした。肥後守貞能(平貞能)は、河尻(摂津国神崎川河口部にあった古代の港。今の兵庫県尼崎市あたり)で源氏が待ちかまえていると聞いたので、兵どもを蹴散らすために、その勢五百騎余りで出て行きましたが、僻事([嘘])だったので兵を返して京に上るところに、鵜殿(今の大阪府高槻市)あたりで行幸([天皇が外出すること])に出合いました、貞能は急ぎ馬から飛んで下りて、大臣殿(平宗盛むねもり。清盛の三男)の御前に参り畏まって、「ああ嘆かわしい、大臣殿はいったいどちらへ行かれるおつもりですか。西国へ下れば、落人となって、あちらこちらで討ち漏らされて、憂き名を流されるのも、悲しいことです。ただ都の内に留まり、いかにでもと思いますが」と申すと、大臣殿(平宗盛むねもり。清盛の三男)は、「貞能(平貞能)はまだ知っておらぬか。木曽(義仲)はすでに北国より五万騎余りで都に攻め上り、比叡山東坂本(今の滋賀県大津市。延暦寺の門前)には兵が満ち溢れておるそうじゃ。法皇(後白河院)も昨夜半に、都から出ていかれた。都の者たちは都の内でどうにでもなれと申し合っておるが、目前にして女院(建礼門院。安徳天皇の生母で清盛の娘徳子とくこ)、二位殿(清盛の正室。時子ときこ)に悲しい目を見せるのも、わたしとしては辛いことであり、せめて行幸([天皇が外出すること])だけは成し遂げて、女院二位殿もお連れして、西国へ落ちて、一先ず落ちつこうと思うのだ」と申すと、「そうでございましたか、ならばわたし貞能(平貞能)は暇を賜って、都の内でなんとかいたしましょう」と言って、連れていた五百騎余りの勢を、小松殿(平重盛しげもり。清盛の嫡男)の公達(重盛の子、維盛これもり資盛すけもりら)に預けて、手勢三十騎ばかりで都に戻って行きました。


続く


by santalab | 2013-11-15 20:02 | 平家物語

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