また信濃源氏村上の三郎判官代、これも木曽を背いて法皇へぞ参りける。木曽の左馬の頭、院の御気色悪しうなると聞こえしかば、始めは木曽に従うたる五畿内の者ども、皆木曽を背いて、院方へ参る。今井の四郎申しけるは、「これこそもつての外の御大事にて候へ。さればとて十善の君に向かひ参らせて、いかで御合戦候ふべき。ただ兜を脱ぎ弓の弦を外いて、降人に参らせ給ふべうもや候ふらん」と申しければ、木曽大きに怒つて、「我信濃を出でしより、小見、合田の合戦より始めて、北国にては、砺波、黒坂、塩坂、篠原、西国にては、福隆寺縄手、篠の迫り、板倉が城を攻めしかども、一度も敵に後ろを見せず。たとひ十善の君にて渡らせ給ふとも、兜を脱ぎ弓の弦を外いて、降人にはえこそ参るまじけれ」。
また信濃源氏村上三郎判官代(源基国=源基国)も、また木曽(義仲)に背いて法皇(後白河院)方に参りました。木曽左馬頭(義仲)は、後白河院の評判が悪くなったと聞いて、はじめは木曽(義仲)に従っていた五畿内([山城・大和・河内・和泉・摂津])の者たちも、皆木曽(義仲)に背いて、院方に参りました。今井四郎(今井兼平)が申すには、「これこそもっての外の一大事でございます。ならばと十善の君([帝王])に向かって、どうして合戦などできましょう。ここは兜を脱ぎ弓の弦を外して、降人として参られるのがよろしいでしょう」と申すと、木曽(義仲)はたいそう怒って、「わしは信濃を出てから、小見の戦い、合田の戦い(ともに長野県東筑摩郡での戦らしい)、北国では、砺波(富山県砺波市)、黒坂(富山県側から倶利伽羅峠に至る道)、塩坂(福井県三方上中郡)、篠原(石川県加賀市)、西国では、福隆寺縄手(福隆寺縄手の戦い。岡山県岡山市)、篠迫(笹ヶ瀬。岡山県岡山市)、板倉の城(板倉川城。岡山県岡山市)を攻めたが、一度も敵に後ろを見せたことなどない。たとえ十善の君とは言えども、兜を脱ぎ弓の弦を外して、降人に参ることなどできぬ」と答えました。
(続く)