加賀房は我が馬の非愛なりとて、主の馬に乗り換へたりけれども、運や尽きにけん、そこにて終に討たれにけり。ここに源蔵人の家の子に、次郎蔵人仲頼と言ふ者あり。栗毛なる馬の、下を白いが駆け出でたるを見つけて、下人を呼び、「ここなる馬は、源蔵人の馬と見るは僻事か」。「さん候ふ」と申す。「さてどの陣へや駆け入りたると見つる」。「河原坂の勢の中へこそ入らせ給ひつるなれ。御馬もやがてあの勢の中より出で来て候ふ」と申しければ、次郎蔵人、涙をはらはらと流いて、「あな無残、早や討たれ給ひたり。幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ契りしに、今は所々に臥さんことこそ悲しけれ」とて、妻子の許へ最期の有様言ひ遣はし、ただ一騎河原坂の勢の中へ駆け入り、鐙踏ん張り立ち上がり、大音声を上げて、「敦実の親王に八代の後胤、信濃の守仲重が子に、次郎蔵人仲頼とて、生年二十七に罷りなる。
加賀房は馬と相性が悪く、主(源仲兼)の馬に乗り換えましたが、運が尽きたのか、そこで終に討たれてしまいました。源蔵人(仲兼)の家の子([一族])に、次郎蔵人仲頼(源仲頼)という者がいました。栗毛([地色が黒みを帯びた褐色で、たてがみと尾が赤褐色の馬])で、足が白い馬が駆けて来たのを見て、下人([家来])を呼んで、「この馬は、源蔵人(仲兼)の馬だと思うが見間違いか」と訊ねました。下人は「そうでございます」と申しました。「どの陣に駆け入ったのであろうか」。「河原坂の勢の中に入ったものと思われます。馬はほどなくあの勢の中から出て参りましたので」と申すと、次郎蔵人(仲頼)は、涙をとめどなく流して、「ああいたわしいことよ、父はすでに討たれてしまった。幼少の竹馬(幼い頃)の昔より、死ぬときは一緒に死のうと約束しておったのに、今となっては別々の別れとなってしまったことは悲しいことだ」といって、妻子の許へ最期の有様を言い遣わして、ただ一騎で河原坂の勢の中へ駆け入って、鐙を踏ん張り馬から立ち上がり、大声を上げて、「敦実親王(第五十九代宇多天皇の第八皇子。宇多源氏の祖)の八代孫、信濃守仲重(源仲重)の子で、次郎蔵人仲頼と申す、生年二十七の者である。
(続く)