我と思はん人々は、寄り合へや見参せん」とて、縦様、横様、蜘蛛手、十文字に駆け割り駆け回り戦ひけるが、敵数多討つ捕つて、終に討ち死にしてげり。源蔵人これをば知り給はず、兄の河内の守仲信うち具して、主従三騎南を指して落ち行きけるが、摂政殿の都をば戦に恐れさせ給ひて、宇治へ御出ありけるに、木幡山にて追つ付き奉り、馬より下りて畏まる。「何者ぞ」と御尋ねありければ、「仲信、仲兼」と名乗り申す。「東国北国の凶徒らかなんど思し召したれば」とて、御感あり。「やがて汝らも御供に候へ」と仰せければ、承つて、宇治の富家殿まで送り参らせて、それよりこの人々は、河内の国へぞ落ち行きける。明くる二十日の日、木曽の左馬の頭義仲六条河原にうつ立つて、昨日斬るところの首ども、皆掛け並べて記いたれば、六百三十余人なり。その中に天台座主明雲大僧正、寺の長吏円恵法親王の御首も掛からせ給ひたり。 これを見る人、涙を流さずと言ふことなし。木曽の左馬の頭、都合その勢七千余騎、馬の頭一面に東向けて、天も響き大地も揺るぐばかりに、時をぞ三箇度作りける。京中また騒ぎ合へり。ただしこれはよろこびの時とぞ聞こえし。さるほどに故少納言入道信西の子息、宰相脩範、法皇の渡らせ給ふ五条内裏へ参つて、門より入らんとすれば、守護の武士ども許さず。案内は知つたり。
我と思う者どもは、寄って来い顔を見てやろうぞ」と言って、縦に、横に、四方八方、十文字に軍の中を駆け割り駆け回って戦いました、敵を数多く討ち取って、終には討ち死にしました。源蔵人(源仲兼)はそれを知りませんでした、兄である河内守仲信(源仲信)と連れ立って、主従三騎で南に向かい落ちて行きましたが、摂政殿(藤原基通)は都の戦に恐れて、宇治へ逃れ行くところに、木幡山(今の京都市伏見区あたり)で追いついて、馬から下りて畏まりました。「何者か」と訊ねられたので、「仲信(源仲信)、仲兼(源仲兼)」と名乗りました。基通は「東国北国の凶徒たちかと思ったのだ」と言って、うれしそうでした。「今すぐお前たちが供をせよ」と命じたので、仲信、仲兼は承って、宇治の富家殿(今の京都府宇治市五ケ庄付近にあった荘園。近衛家領)まで見送って、それから仲兼たちは、河内国(今の大阪府南東部)に落ちて行きました。明けた二十日、木曽左馬頭義仲(木曽義仲)は六条河原に出て、昨日斬った首を、皆掛け並べると、六百三十人余りになりました。その中に天台座主の明雲大僧正(源顕通の長男)、三井寺の長吏([長官])円恵法親王(後白河院の子)の首も掛かっていました。これを見る人で、涙を流さない者はいませんでした。木曽左馬頭(義仲)は、都合その勢七千騎余りで、馬の頭を皆東に向けて、天にも響き大地も揺るがすばかりに、時の声を三度作りました。京中はまた騒ぎになりました。けれどもこれはよろこび合う声でした。やがて故少納言信西の子である、宰相脩範(藤原脩範)が、法皇(後白河院)がお移りになられた五条内裏(第七十九代六条天皇の里内裏だったらしい)に参って、門から入ろうとすると、守護の武士はこれを許しませんでした。けれど脩範はここをよく知っていました。
(続く)