夜を日に継いで鎌倉へ馳せ下り、この由訴へ申されければ、鎌倉殿、「これは鼓判官が不思議のこと申し出でて、君をも悩まし奉り、rb>多の高僧貴僧をも失ひけることこそ、返す返すも奇怪なれ。これらを召し仕はせ給はば、この後も天下の騒動弛まじう候ふ」と申されければ、知康このこと陳ぜんとて、夜を日に継いで鎌倉へ馳せ下り、梶原平蔵景時に付いて、さまざまに陳じ申しけれども、鎌倉殿、「しやつに目なかけそ。相知らひなせそ」とのたまへば、日毎に兵衛の佐の館へ向かふ。遂に面目なくして、また都へ返り上り、辛き命生きつつ、稲荷の辺なる所に、幽かなる体にて住まひけるとぞ聞こえし。
昼夜を継いで鎌倉に急ぎ下り、木曽(義仲)の狼藉を訴え申すと、鎌倉殿(源頼朝)は、「鼓判官(平知康が不思議([人間の認識・理解を越えていること])のことを申し出たために(木曽義仲を追討する由を申したこと)、君(後白河院)もお悩みになり、多くの高僧貴僧を失ったことは、返す返すも奇怪([非常識])なことである。義仲を京に留め置けば、今後も天下の騒動が収まることはないであろう」と申したので、知康(平知康)は釈明するために、昼夜隔てなく鎌倉に急ぎ下り、梶原平蔵景時(梶原景時)に、さまざまに申し述べましたが、鎌倉殿(頼朝)が、「やつの言うことなど放っておけ、話を聞くな」と言ったので、毎日兵衛佐(頼朝)の館を訪ねました。けれども遂に対面を許されないまま、また都に戻って、甲斐なき命を永らえて、稲荷(伏見稲荷。今の京都市伏見区にある神社)のあたりに、ひっそりと暮らしたということです。