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「平家物語」生食沙汰(その1)

寿永じゆえい三年正月一日ひとひの日、院の御所は大膳大夫業忠なりただが宿所、六条西洞院なりければ、御所のていしかるべからずとて、院の礼拝はいらいも行はれず。院の礼拝なかりければ、内裏の小朝拝こでうはいも行はれず。平家は讃岐国屋島の磯に送り迎へて、年の始めなれども、元日ぐわんにち元三ぐわんざんの儀式事よろしからず。主上しゆしやう渡らせ給へども、節会せちゑも行はれず、四方拝しはうはいもなし。腹赤はらかも奏せず、吉野の国栖くずまゐらず。「世乱れたりしかども、都にてはさすがかくはなかりしものを」とぞ、各々のたまひ合はれける。青陽せいやうの春も来たり、浦吹く風もやはらかに、日陰ものどかになり行けど、ただ平家の人々は、いつもこほりに閉ぢ籠められたる心地して、寒苦鳥かんくてうに異ならず。東岸西岸の柳遅速を交へ、南枝なんし北枝の梅、開落すでに異にして、花のあした月の夜、詩歌しいか管弦くわんげんまり、小弓、扇合あふぎあはせ、絵合ゑあはせ、草尽くし、虫尽くし、様々きようありしことども思ひ出で、語り続けて、長き日を暮らしかね給ふぞあはれなる。




寿永三年(1184)正月一日、院御所は大膳大夫業忠(平業忠)の宿所、六条西洞院でしたので、御所の体をなしていなくて、院の礼拝([元旦に院に拝賀する儀式])も行われませんでした。院の礼拝がなければ、内裏の小朝拝([元旦に天皇に拝賀する儀式])もありませんでした。平家は讃岐国の屋島(今の香川県高松市)で年を送り迎えて、年のはじめでしたが、元日元三([正月三箇日])の儀式も不相応なものでした。主上(安徳天皇)は儀式に出られましたが、節会([元日の節会]=[元日の朝賀のあと、天皇が群臣百官に宴を賜った儀式])も行われず、四方拝([宮中で行われる一年最初の儀式])も行われませんでした。腹赤の奏([一月十四日、大宰府から朝廷に天皇の供御として献上された「腹赤」を内膳司が受け奏する儀])もなく、吉野の国栖([大和国吉野郡国栖地方の住民が、宮中の節会に参上し歌笛を奏した])も参りませんでした。「世は乱れたとはいえ、都ならばこのようなことはなかったものを」と、人々は言い合いました。青陽([初春])になって、浦吹く風もおだやかに、日の光も心地よいものになりましたが、ただ平家の者たちは、氷に閉じ込められたような心地で、まるで寒苦鳥([インドのヒマラヤにすむという想像上の鳥。夜に雌は寒苦を嘆いて鳴くという])のようでした。東岸西岸の柳はそれぞれに、南枝北枝の梅は、あるは開きあるはすでに散って、花の朝([花見])月の夜([月見])、詩歌管弦、鞠([蹴鞠])、小弓([遊戯用の小さい弓を用いた遊戯])、扇合わせ([左右の組に分かれて扇を出し合い、その趣向の優劣を判者が判定した])、絵合わせ([互いに絵、または絵に和歌などを添えたものを出し合い優劣を争った遊び])、草尽くし([草合わせ]=[五月五日の節句などに、種々の草を持ち寄り見せ合って、その優劣を競った遊び])、虫尽くし([虫合わせ]=[いろいろの虫を持ち寄って、その鳴き声や姿の優劣を競う遊び])といった、いろいろ面白かったことを思い出して、話し続けては、長い一日を暮らしかねていましたが哀れなことでした。


続く


by santalab | 2013-11-17 08:48 | 平家物語

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