佐々木四郎の賜られたりける御馬は、黒栗毛なる馬の、極めて太うたくましきが、馬をも人をも、あたりを払つて喰ひければ、生食とは付けられたり。八寸の馬とぞ聞こえし。梶原が賜つたりける御馬も、極めて太うたくましきが、まことに黒かりければ、摺墨とは付けられたり。いづれも劣らぬ名馬なり。さるほどに東国より攻め上る追手搦め手の軍兵、尾張の国より二手に分かつて攻め上る。追手の大将軍には、蒲の御曹司範頼、相伴ふ人々、武田の太郎、加賀美の次郎、一条の次郎、板垣の三郎、稲毛の三郎、榛谷の四郎、熊谷の次郎、猪俣の小兵六を先として、都合その勢三万五千余騎、近江の国野路篠原にぞ陣を取る。搦め手の大将軍には、九郎御曹司義経、同じく伴ふ人々、安田の三郎、大内の太郎、畠山の庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、渋谷右馬允、平山の武者所を先として都合その勢二万五千余騎馬、伊賀の国を経て、宇治橋の詰めにぞ押し寄せたる。宇治も瀬田も橋を引き、水の底には乱杭打つて大綱張り、逆茂木繋いで流し掛けたり。頃は睦月二十日余りのことなれば、比良の高嶺、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷うち溶けて、水は折節増さりたり。
佐々木四郎(佐々木高綱)が賜った馬は、黒栗毛([黒みを帯びた栗毛=地色が黒みを帯びた褐色で、たてがみと尾が赤褐色のもの])の馬で、太くたくましいものでしたが、馬も人も、近づくものを追い払うためにかみついたので、生食と名付けられていました。八寸([馬の背丈が四尺八寸あるもの])の馬ということでした。梶原(景季)が賜った馬も、たいそう太くたくましい馬でしたが、とても黒かったので、摺墨と呼ばれていました。どちらとも優劣の付かない名馬でした。やがて東国より攻め上る追手([先陣])、搦め手([後陣])の軍兵は、尾張国より二手に分かれて攻め上りました。追手の大将軍は、蒲の御曹司範頼(源範頼)、従う者たちは、武田太郎(武田信義)、加賀美次郎(加賀美遠光。武田信義の弟)、一条次郎(一条忠頼。武田信義の嫡男)、板垣三郎(板垣兼信。武田信義の三男)、榛谷四郎(榛谷重朝)、熊谷次郎(熊谷直実)、猪俣小兵六(猪俣範綱)を先陣として、都合その勢三万五千騎余り、近江国の野路篠原(滋賀県草津市野路町)に陣を取りました。搦め手([後陣])の大将軍には、九郎御曹司義経(源義経)、従う者たちは、安田三郎(安田義定)、大内太郎(大内維義)、畠山庄司次郎(畠山重忠)、梶原源太(梶原景季)、佐々木四郎(佐々木高綱)、糟屋藤太(糟屋有季、渋谷右馬允(渋谷重助)、平山武者所(平山季重)を先頭に都合その勢二万五千余騎馬は、伊賀国を経て、宇治橋の詰め(京都府宇治市)に押し寄せました。木曽(義仲)方では宇治橋瀬田橋を引き、川の底には乱杭([地上や水底に数多く不規則に打ち込んだくい])を打ちそれに大綱を張り巡らして、逆茂木([敵の侵入を防ぐために、先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵])を繋いで流してありました。頃は睦月([陰暦一月])二十日過ぎのことでしたので、比良の高嶺([琵琶湖西岸の山地])、志賀山([滋賀県大津市にある山])では、昨年降り積もった雪も消え、谷々の氷も溶けて、川の水嵩はちょうど増さっていました。
(続く)