同じき二十二日、新摂政殿止められさせ給ひて、元の摂政還着し給ふ。わづか六十日の内に代へられさせ給ひぬれば、いまだ見果てぬ夢の如し。昔粟田の関白は慶び申しの後、ただ七箇日だにありしぞかし。これは六十日とは申せども、その間に節会も除目も行はれぬれば、思ひ出なきにあらず。同じき二十四日、木曽の左馬の頭、余党五人が首都へ入つて、大路を渡さる。樋口の次郎は降人たりしが、しきりに首の供せんと申しければ、さらばとて青摺りの直垂、立烏帽子にてぞ渡されける。明くる二十五日、樋口の次郎終に斬られにけり。範頼義経、様々に申されけれども、今井、樋口、楯、根井とて、木曽が四天王のその一なれば、これらを助けられんは、養虎の患へあるべしと、殊に沙汰あつて斬られけるとぞ聞こえし。
同じ二月二十二日、新摂政殿(松殿師家)は職を解かれて、元の摂政(近衛基通)が還着しました。わずか六十日で代えられて、まだ見果てぬ夢を見るようなものでした。昔粟田関白(藤原道兼)が慶び申し([慶び申しの後、])の後、ただ七日間ばかり位に就いたことがありました(病死)。師家は六十日間とはいえども、その間に節会([節日=祝日。などに天皇の許に群臣を集めて行われた公式行事])も除目([大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式])も行われたので、思い出がないわけではありませんでした。同じ二十四日に、木曽左馬頭(木曽義仲)をはじめ、余党五人の首が都に入り、大路を渡されました。樋口次郎(兼光)は降人でしたが、何度も首渡しの供をしたいと申したので、ならばと青摺り([物忌みのしるしとして、白地に山藍の葉などで模様を青く型摺りにした衣])の直垂([武家の礼服])に、立烏帽子姿で大路を渡されました。明くる二十五日に、樋口次郎(兼光)が終に斬られました。範頼(源範頼)義経(源義経)は、何度も奏上しましたが、今井(兼平)、樋口(兼光)、楯(親忠)、根井(行親)と言う、木曽の四天王(義仲四天王)の一人でしたので、これらを助けては、養虎の患え([後日に不安を残すこと]。『史記』)になると、格別の裁きによって斬られたと言われました。
(続く)