能登殿、「余すな、漏らすな」とて、散々に攻め給へば、安摩の六郎敵はじとや思ひけん、和泉の国吹井の浦に立て籠る。また紀の国の住人、園辺の兵衛忠康、これも平家に心よからざりけるが、安摩の六郎が能登殿にていたう攻められ奉て、和泉の国吹井の浦にありと聞いて、その勢百騎ばかりで、和泉の国へ打ち越えて、安摩の六郎、園辺の兵衛一つになつて、城郭を構へて待つところに、能登殿やがて押し寄せて、散々に攻め給へば、安摩の六郎、園辺の兵衛敵はじとや思ひけん、身柄は逃げて京へ上る。残り留まつて、防ぎ矢射ける兵ども、百三十余人が首斬つて、福原へこそ参られけれ。
能登殿(平教経。清盛の弟教盛の次男)は、「余すな、漏らすな」と言って、散々に攻めたので、安摩六郎(安摩忠景)は敵わないと思って、和泉国の吹井浦(和歌山県日高郡由良町吹井)に立て籠もりました。また紀伊国の住人、園部兵衛忠康(園部忠康)も、また平家をよく思っていませんでしたが、安摩六郎(忠景)が能登殿(教経)にひどく攻められて、和泉国吹井浦にいると聞いて、その勢百騎ばかりで、和泉国に向かい、安摩六郎(忠景)、園辺兵衛(忠康)はともに、城郭を構えて待ち受けました、能登殿(教経)はやがて押し寄せて、散々に攻めたので、安摩六郎(忠景)、園辺兵衛(忠康)は敵わないと思い、逃げて京に上りました。能登殿(教経)は残り留まって、防ぎ矢([敵の進撃を阻止するために射る矢])を射ていた兵たち、百三十人余りの首を斬って、福原に参りました。
(続く)