この田代の冠者と申すは、父は伊豆の国の前の国司、中納言為綱の末葉なり。母は狩野の介茂光が娘を思うて設けたりしを、母方の祖父に預けて、弓矢取りにはしたてたんなり。俗姓を尋ぬれば、後三条の院の第三の皇子、輔仁の親王に五代の孫なり。俗姓もよき上、弓矢を取つてもよかりけり。平家の方には、その夜、夜討ちにせんずるをば夢にも知らず、「戦は定めて明日の戦にてぞあらんずらん。戦にも眠たいは大事のものぞ。よく寝て戦せよ者ども」とて、先陣は自づから用心しけれども、後陣の兵どもは、あるひは兜を枕にし、あるひは鎧の袖箙などを枕として、前後も知らずぞ伏したりける。その夜の夜半ばかり、源氏一万余騎、三草の山の西の山口に押し寄せて、時をどうとぞ作りける。平家の方には、余りに慌て騒いで、弓取るもの矢やを知らず、矢を取るものは弓を知らず、慌てふためきけるが、馬に当てられじとや思ひけん、皆中を開けてぞ通しける。源氏は落ち行く平家を、あそこに追つ掛け、ここに追つ詰め、散々に攻めければ、矢庭に五百余人討たれぬ。手負ふ者ども多かりけり。大将軍新三位の中将資盛、同じき少将有盛、丹後の侍従忠房、三草の手を破られて、面目なうや思はれけん、播磨の高砂より舟に乗つて、讃岐の屋島へ渡り給ひぬ。備中の守師盛ばかりこそ、何としてかは洩れさせ給ひたりけん、平内兵衛、海老の次郎を召し具して、一の谷へぞ参られける。
田代冠者(田代信綱)というのは、父は伊豆国の前国司で、中納言為綱(田代為綱)の末葉(信綱は為綱の子)でした。母は狩野介茂光(狩野茂光=工藤茂光)の娘でしたが、母方の祖父に預けて、弓矢取り(武士)にしました。俗姓([家柄])は、後三条院(第七十一代天皇)の第三皇子、輔仁親王の五代孫でした。俗姓もよい上、弓矢取りの才能も優れていました。平家方では、その夜、夜討ちがあるとは夢にも思わず、「戦はきっと明日に違いない。よく寝て戦に備えよ者ども」と、先陣は用心していましたが、後陣の兵たちは、ある者は兜を枕にし、ある者は鎧の袖や箙([矢を入れる武具])を枕にして、前後不覚に眠っていました。その夜の夜半ほどに、源氏一万騎余りが、三草山(兵庫県加東市)の西の山口に押し寄せて、時の声をどっと上げました。平家方は、あまりに慌て騒いで、弓を持つ者は矢を知らず、矢を持つ者は弓を知らず、慌てふためきました、馬に蹴られてはたまらないと思って、皆逃げ出して馬を通しました。源氏は落ち行く平家の兵たちを、あそこに追っかけ、ここに追い詰めて、散々に攻めたので、たちまちに五百人余りが討たれました。傷を負う者も多くいました。大将軍新三位中将資盛(平資盛。清盛の嫡男重盛の次男)、同じく少将有盛(平有盛。重盛の四男)、丹後侍従忠房(平忠房。重盛の六男)は、三草山の手を破られて、面目なく思ったのか、播磨の高砂(兵庫県高砂市)より舟に乗って、讃岐の屋島(香川県高松市)に渡りました。備中守師盛(平師盛。重盛の五男)だけは、どうしたことかはぐれて、平内兵衛(伊賀清家)、海老次郎(海老盛方)を引き連れて、一の谷(兵庫県神戸市須磨区)に参りました。
(続く)