人気ブログランキング | 話題のタグを見る

Santa Lab's Blog


「平家物語」老馬(その5)

ここに武蔵ばう弁慶、ある老翁らうおう一人いちにん具してまゐりたり。 御曹司、「あれはいかに」とのたまへば、「これはこの山の猟師れふしさふらふ」とまうしければ、「さては案内よく知つたるらん」。「いかでか存知ぞんぢ仕らでは候ふべき」。御曹司、「さぞあるらん。これより平家の城郭じやうくわく一の谷へ落さうと思ふはいかに」。「努々ゆめゆめ叶うひ候ふまじ。およそ三十丈さんじふぢやうの谷、十五丈の岩崎いはさきなどをば、容易う人のかよふべきやうも候はず。そのうへじやうの内には、落とし穴をも掘り、ひしをも植ゑて待ちまゐらせ候ふらん。増して御むまなどは思ひも寄り候はず」と申しければ、御曹司、「さて然様さやうの所は、鹿ししは通ふか」。「鹿は通ひ候ふ。世間だに暖かになり候へば、草の深きに臥さんとて、播磨の鹿は丹波へ越え、世間だに寒くなり候へば、雪の浅りにまんとて、丹波の鹿は播磨の印南野いなみのへ越え候ふ」とぞ申しける。御曹司、「さては馬場ござんなれ。鹿の通はんずる所を、馬の通はざるべき様やある。さらばやがてなんぢ案内者せよ」とのたまへば、「この身は年老いて、いかにも叶ひ候ふまじ」と申す。「さて汝に子はないか」。「候ふ」とて、熊王くまわうとて生年しやうねん十八歳じふはつさいになりける小冠せうくわんを奉る。御曹司、やがてもとどり取り上げさせ給ひて、父をば鷲尾わしのを庄司しやうじ武久たけひさと言ふあひだ、これをば鷲尾の三郎さぶらう義久よしひさと名乗らせて、一の谷の先打ちせさせ、案内者にこそ具せられけれ。平家亡び、源氏の世になつて後、鎌倉殿仲違うて、奥州あうしうへ下り討たれ給ひし時、鷲尾の三郎義久と名乗つて、一所で死ににけるつはものなり。




ここに武蔵坊弁慶が、一人の老翁を連れて、参りました。御曹司(源義経)が、「あれは誰だ」と訊ねると、弁慶は「これはこの山の猟師でございます」と答えました。義経が「ならばこの山のことはよく知っているだろう」と言いました。弁慶は「どうして知らないはずがございましょう」と答えました。御曹司(義経)は、「お前はこの山のことをよく知っているだろう。ここから平家の城郭一の谷へ下ろうと思うがどうか」と老人に訊ねました。老人は「それはとても無理でございます。およそ三十丈(約90m)の谷、十五丈(約45m)の岩崎([岩が突き出た所])を、容易く人が通れるはずもございません。その上、城の内には、落とし穴を掘り、菱([針])を置いて待ち構えているでしょう。ましてや馬などとても通れません」と申すと、御曹司(義経)は、「そんな所を、鹿は通うのか」と訊ねました。老人は「鹿は通いまする。気候が暖かくなれば、草深い所で寝るために、播磨の鹿は丹波に移動し、寒くなれば、雪の浅い所に餌を探して、丹波の鹿は播磨の印南野(兵庫県加古郡稲美町)に移るのでございます」と答えました。御曹司(義経)は、「ならば馬場と同じではないか。鹿が通う所を、馬が通れないはずがない。すぐにお前が案内せよ」と申せば、老人は「この身は年老いて、無理でございます」と答えました。義経が「お前に子はいないか」と訊ねました。老人は「おります」と答えて、熊王という生年十八歳になる小冠([元服してから余り年を経ていない者])を差し出しました。御曹司(義経)は、すぐに熊王を元服させて、父は鷲尾庄司武久と言う者でしたので、これには鷲尾三郎義久と名乗らせて、一の谷の先打ち([に乗って隊列の先頭に立って進むこと])とし、案内者として連れて行きました。平家が亡び、源氏の世になった後、義経が鎌倉殿(源頼朝)と仲違いして、奥州に下り討たれた時、鷲尾三郎義久と名乗って、一所で死んだ兵でした。


続く


by santalab | 2013-11-18 17:52 | 平家物語

<< 「平家物語」一二之懸(その1)      「平家物語」老馬(その4) >>

Santa Lab's Blog
by santalab
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧