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「平家物語」小宰相身投(その8)

されば忠臣ちうしん二君じくんに仕へず、貞女ていぢよ二夫じふまみえずとも、かやうのことをやまうすべき。この女房にようばうと申すは、とう荊部卿ぎやうぶきやう憲方のりかたむすめ禁中きんちう一の美人、名をば小宰相こざいしやう殿とぞ申しける。上西門じやうせいもん院の女房なり。この女房十六じふろくと申しし安元あんげんの春の頃、女院によゐん法勝ほつしよう寺へ花見の御幸ごかうのありしに、通盛みちもりきやう、その頃は、いまだ中宮ちうぐうすけにて供奉ぐぶせられたりけるが、見初めたりし女房なり。はじめは歌を詠み、文を尽くされけれども、玉梓たまづさの数のみ積もつて、取り入れ給ふこともなし。すでに三年みとせになりしかば、通盛卿、今を限りの文を書いて、小宰相殿の許へ遣はす。あまつさへ取り伝へける女房にだに会はずして、使ひむなしうかへりける道にて、折節小宰相殿は、里より御所へぞまゐられける。使ひむなしう帰り参らんことの本意ほいなさに、そばをつと走りとほやうにて、小宰相殿の乗り給うへる車のすだれの内へ、通盛卿の文をぞ投げ入れたる。供の者どもに問ひ給へば、「知らず」と申す。さてかの文を開けて見給へば、通盛卿の文なりけり。




ならば忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫に見えずというのと、同じものと思われました。この女房と言うのは、頭荊部卿憲方(藤原憲方)の娘で、禁中([宮中])一の美人、名を小宰相殿といいました。上西門院(鳥羽天皇の皇女統子むねこ内親王。後白河院の同母姉)の女房でした。小宰相が十六歳の安元(1175~1177)の春の頃、建礼門院が法勝寺(かつて今の京都市左京区にあった寺)へ花見の御幸([天皇が出かけること])があった時、通盛卿(平通盛。清盛の異母弟教盛のりもりの長男)が、その頃は、まだ中宮亮でしたが、見初めた女房でした。最初は歌を詠み、文をたくさん贈りましたが、玉梓([手紙])の数ばかり積もって、気を惹くことはありませんでした。すでに三年にもなって、通盛は、最後の文を書いて、小宰相殿の元へ使いを遣わしました。事もあろうにいつも取り次いでいた女房にさえ会えずに、使いは甲斐なく帰る道で、ちょうど小宰相殿が、故郷より御所([内裏])へ参るところに出会いました。使いは無駄に帰るのも残念なので、車のそばを走り通りながら、小宰相殿が乗った車の簾の内に、通盛卿の文を投げ入れました。小宰相殿はお供の者たちに聞きましたが、「知らない」と答えました。そしてこの文を開けてみると、通盛卿の文だったのです。


続く


by santalab | 2013-11-18 21:06 | 平家物語

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