されば忠臣は二君に仕へず、貞女は二夫に見えずとも、かやうのことをや申すべき。この女房と申すは、頭の荊部卿憲方の女、禁中一の美人、名をば小宰相殿とぞ申しける。上西門院の女房なり。この女房十六と申しし安元の春の頃、女院法勝寺へ花見の御幸のありしに、通盛の卿、その頃は、いまだ中宮の亮にて供奉せられたりけるが、見初めたりし女房なり。はじめは歌を詠み、文を尽くされけれども、玉梓の数のみ積もつて、取り入れ給ふこともなし。すでに三年になりしかば、通盛卿、今を限りの文を書いて、小宰相殿の許へ遣はす。あまつさへ取り伝へける女房にだに会はずして、使ひむなしう帰りける道にて、折節小宰相殿は、里より御所へぞ参られける。使ひむなしう帰り参らんことの本意なさに、そばをつと走り通る様にて、小宰相殿の乗り給うへる車の簾の内へ、通盛卿の文をぞ投げ入れたる。供の者どもに問ひ給へば、「知らず」と申す。さてかの文を開けて見給へば、通盛卿の文なりけり。
ならば忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫に見えずというのと、同じものと思われました。この女房と言うのは、頭荊部卿憲方(藤原憲方)の娘で、禁中([宮中])一の美人、名を小宰相殿といいました。上西門院(鳥羽天皇の皇女統子内親王。後白河院の同母姉)の女房でした。小宰相が十六歳の安元(1175~1177)の春の頃、建礼門院が法勝寺(かつて今の京都市左京区にあった寺)へ花見の御幸([天皇が出かけること])があった時、通盛卿(平通盛。清盛の異母弟教盛の長男)が、その頃は、まだ中宮亮でしたが、見初めた女房でした。最初は歌を詠み、文をたくさん贈りましたが、玉梓([手紙])の数ばかり積もって、気を惹くことはありませんでした。すでに三年にもなって、通盛は、最後の文を書いて、小宰相殿の元へ使いを遣わしました。事もあろうにいつも取り次いでいた女房にさえ会えずに、使いは甲斐なく帰る道で、ちょうど小宰相殿が、故郷より御所([内裏])へ参るところに出会いました。使いは無駄に帰るのも残念なので、車のそばを走り通りながら、小宰相殿が乗った車の簾の内に、通盛卿の文を投げ入れました。小宰相殿はお供の者たちに聞きましたが、「知らない」と答えました。そしてこの文を開けてみると、通盛卿の文だったのです。
(続く)