判官、土佐坊が上つたる由を聞こし召して、武蔵坊弁慶をもつて召されければ、やがて連れてぞ参つたる。判官、「いかに土佐坊、鎌倉殿より御文はなきか」とのたまへば、「別の御事も候はぬ間、御文をば参らせられず候ふ。御詞で申と仰せ候ひつるは、『当時都に別の仔細の候はぬは、さて渡らせ給ふ御故なり。相構へてよくよく守護せさせ給へと申せ』とこそ仰せ候ひつれ」と申しければ、判官、「よもさはあらじ。義経討ちに上つたる御使ひなり。大名ども差し上せば、宇治瀬田の橋をも引き、京都の騒ぎともなつて、なかなか悪しかりなんず。和僧上つて物詣でするやうで、謀つて討てと仰せつけられたんな」とのたまへば、土佐坊大きに驚き、「何によつてか、ただ今さる御事の候ふべき。これはいささか宿願の仔細候ひて、熊野参詣のために、罷り上つて候ふ」と申しければ、その時判官、「景時が讒言によつて、鎌倉中へだに入れられずして、追ひ上せられしことはいかに」。
判官(源義経)は、土佐坊(昌俊)が京に上ったと聞いて、武蔵坊弁慶を遣ると、やがて弁慶が土佐坊を連れてやって来ました。義経は、「どうだ土佐坊よ、鎌倉殿(源頼朝)からの文はないのか」と言うと、「特に何事もありませんでしたので、文は預かっておりません。言伝てで申せと伺ったのは、『今は都に特に差し支えはないので、昌俊を京に行かせることにした。昌俊をもてなして警護するように申せ』とおっしゃいましたと言うと、義経は、「そんなはずはない。お前はわしを討ちに京に上った頼朝の使いであろう。大名たちを差し向ければ、宇治(宇治川)瀬田(瀬田川)の橋も取り外されて、京都も騒ぎとなって、なかなかうまくはいかないからな。お前が上り参詣する風を装って、わしをだまして討てと言いつけられたのだろう」と言いました、土佐坊は大変驚いて、「いったいどんな証拠があって、そんな事を言うのですか。わたしが参ったのはある宿願([前世に起こした誓願])ある故に、熊野(熊野三山)参詣を、命じられて来たのです」と言えば、その時義経が言いました、「景時(梶原景時)がわたしの悪口を言って、鎌倉へも帰ることができないのに、わたしを追って京に上ってくるとはどういうことだ」。
(続く)