ここに安達の新三郎と言ふ雑色あり。「きやつは下郎なれども、賢々しき者にて候ふ。召し使はれ候へ」とて、鎌倉殿より判官に付けられたりけるとかや。これは、内々九郎が振る舞ひを見て、我に知らせよとなり。土佐坊が斬らるるを見て、夜を日に継いで馳せ下り、この由かくと申しければ、鎌倉殿大きに驚き、舎弟三河の守範頼に、討つ手に上り給ふべき由のたまへば、しきりに辞し申されけれども、いかにも叶ふまじき由を、重ねてのたまふ間、力及ばず急ぎ物の具して、御暇申しに参られたりければ、鎌倉殿、「和殿もまた九郎が振る舞ひし給ふなよ」とのたまひける御言葉に恐れて、宿所に帰り、急ぎ物の具脱ぎ置き、京上りをば思ひ留まり給ひぬ。まつたく不忠なき由の起請文を、一日に十枚づつ、昼は書き、夜は御壺の内にて読み上げ読み上げ、百日千枚の起請を書いて参らせられたりけれども、叶はずして、範頼終に討たれ給ひけり。次に北条の四郎時政に、六万余騎を差し添えへて、討つ手に上せらるる由聞こえしかば、判官、宇治瀬田の橋をも引き、防がばやと思はれけるが、ここに緒方の三郎維栄は、平家を九国の内へも入れずして、追ひ出だすほどの威勢の者なり。
安達新三郎(安達清常)と言う雑色([召し使い])がいました。「奴は下郎([身分の低い者])ではあるが、頭が良い。召し使え」と言って、鎌倉殿(源頼朝)より判官(源義経)に付けられたそうです。これは、内々に九郎(清経)の振る舞いを見て、我(頼朝)に知らせよということでした。清常は土佐坊が斬られたのを見て、昼夜通して急ぎ鎌倉に下り、これを知らせました、頼朝はとても驚いて、舎弟の三河守範頼(源範頼)に、討っ手として京に上るよう命じましたが、しきりに辞退しました、重ねて命じられたので、仕方なく武具を身に付けて、別れを申しに参りましたが、頼朝は、「お主もまた義経のように裏切るでないぞ」と言った言葉に恐れて、宿所に帰り、急いで武具を脱いで、京上りを思い留まりました。まったく不忠ではないことを起請文([神仏への誓いを記した文書])にしたためて、一日に十枚ずつ、昼は書き、夜は御壺([御所などの中庭])で何度も読み上げて、百日で千枚の起請を書いて頼朝の許に参りましたが、それも叶わず、範頼は終に討たれてしまいました。次に北条四郎時政(北条時政。頼朝の妻北条政子の父)に、六万騎余りを与えて、討っ手に上らせると聞いたので、義経は、宇治瀬田の橋を引いて、これを防ごうと思いましたが、義経の勢に緒方三郎維栄がいました、維義は平家を九国([九州])の内にも入れず、追い出すほどの威勢を持った者でした。
(続く)