「我に頼まれよ」とのたまへば、「さ候はば、身内に候ふ菊池の次郎隆直は、年来の敵で候ふ間、給はつて斬つて後、頼まれ奉らん」と申しければ、判官左右なう賜うでげり。やがて六条河原へ引き出だいてぞ斬りてげる。その後維栄領状す。同じき十一月二日の日、九郎大夫の判官院参して、大蔵卿泰経の朝臣をもつて、奏聞せられけるは、「頼朝、郎等どもが讒言によつて、義経討たんと仕り候ふ。宇治瀬田の橋をも引き、防がばやとは存じ候へども、京都の騒ぎともなつて、中々悪しう候ひなんず。ひと先づ鎮西の方へも、落ち行かばやと存じ候ふ。あはれ院庁の御下し文を賜はつて、罷り下り候はばや」と申されたりければ、法皇、この事いかがあらんずらんと、思し召し煩はせ給ひて、諸卿に仰せ合はせらる。諸卿申されけるは、「義経都に候ひなば、東国の大勢乱れ入つて、京都の騒動堪えまじう候ふ。しばらく鎮西の方へも、落ち行き候はば、その恐れあるまじう候ふ」と申されたりければ、さらばとて、鎮西の者ども、緒方の三郎維義を始めとして、臼杵、戸次、松浦党にいたるまで、皆義経が、下知に従ふべき由の、院の庁の御下し文を賜はつて、明くる三日の卯の刻に、都にいささかの煩ひもなさず、波風をも立てずして、その勢五百余騎でぞ下られける。
「わたしに味方せよ」と言うと、「そういうことでしたら、身内である菊池次郎隆直(菊池隆直)とは、敵ですから、斬ってもらえるのならば、味方になりましょう」と申したので、判官(源義経)は何なく引き受けました。すぐに六条河原に隆直を引き出して斬りました。その後維栄(緒方維栄)は味方になることを承知しました。同じ文治元年(1185)十一月二日に、九郎大夫判官(義経)が院御所に参って、大蔵卿泰経朝臣(高階泰経)をもって、申し上げるには、「頼朝(源頼朝)は、郎等([家来])たちの偽りによって、わたしを討とうとしております。宇治瀬田の橋を引いて、これを防ごうと思いますが、京都が騒ぎとなって、よろしくありません。ひとまずは鎮西([九州])の方へ、逃げようと思います。そういう次第ですので院庁の下し文([下達文書])を賜って、下りたいと思います」と言いました、後白河院は、どのように取り扱ったものか、思い悩んで、諸卿に相談しました。諸卿が申すには、「義経が都にとどまれば、東国の兵が大勢乱れ言って、京都の騒動は堪え難いものとなるでしょう。義経がしばらく鎮西の方へ、落ち行くのならば、その恐れはないと思われます」と申したので、ならばと、鎮西の者たち、緒方三郎維栄をはじめとして、臼杵(今の大分県臼杵市)、戸次(今の大分県大分市戸次)、松浦党(今の佐賀県伊万里市松浦あたりで組織された武士団)にいたるまで、皆義経の、命令に従うべきとの、院庁の下し状を賜って、明けた三日の卯の刻(午前六時頃)に、都に少しの騒動も起こさず、波風も立てずに、その勢五百騎余りで鎮西に下っていきました。
(続く)