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「平家物語」六代(その2)

母の悲しみ乳母が嘆き、たとへん方ぞなかりける。北条ほうでうも子孫さすが広ければ、これをいみじとは思はねども、世に従ふ習ひなれば力及ばず。中にも小松の三位さんみ中将ちうじやう維盛これもりきやうの若君、六代御前とて、歳も少し大人しうまします。そのうへ平家の嫡々にしておはしければ、いかにもして捕り奉つて失はんとて、手を分けてたづねけれども、求めかねて、すでにむなしう下らんとしけるところに、ある女房にようばうの六波羅にまゐつてまうしけるは、「これより西、遍照へんぜう寺の奥、大覚だいかく寺と申す山寺の北、菖蒲谷しやうぶだにと申す所にこそ、小松の三位の中将維盛の卿の北の方、若君、姫君、忍うでましますなれ」と言ひければ、北条うれしきことをも聞きぬと思ひ、かしこへ人を遣はして、その辺をうかがはせけるほどに、あるばうに女房たちあまた、をさなき人々、由々しう忍うだるていにて住まはれたり。まがきひまよりのぞいて見れば、白いの子のにはへ走り出でたるを捕らんとて、世に美しき若君の、続いて出で給ひけるを、乳母の女房と思しくて、「あな浅まし。人もこそ見まゐらせさぶらへ」とて、急ぎ引き入れ奉る。これぞ一定いちぢやうそにてましますらんと思ひ、急ぎ走りかへつて、この由申しければ、次の日、北条、菖蒲谷にをうち囲み、人を入れて申されけるは、「小松の三位の中将維盛の卿の若君、六代御前のこれにまします由うけたまはつて、鎌倉殿の御代官だいくわんとして、北条の四郎しらう時政ときまさが、御迎ひに参つてさふらふ。う疾う出だし参らさせ給へ」と申されければ、母うへ夢の心地して、つやつや物をも思え給はず。斎藤五、斎藤六、その辺を走りまはつて窺ひけれども、武士ども四方しはうをうち囲んで、いづ方より出だし参らすべしとも思えず。




母の悲しみ乳母の嘆きは、たとえようもありませんでした。北条(北条時政)も子孫が多すぎると、辛く思いましたが、上に従うのが世の習いならば仕方ありませんでした。中でも小松三位中将維盛卿(平維盛。重盛しげもりの嫡男で清盛の嫡孫)の若君、六代御前と呼ばれて、歳も少し大きくなっていました。その上平家の嫡々(平正盛まさもりから数えて六代目なので、六代です)でしたので、どうにかして捕らえて誅するべきと、手分けして捜していましたが、見つけることができなくて、仕方なく鎌倉に下ろうとしているところに、ある女房が六波羅を訪ねて、「ここより西、遍照寺(今の京都市右京区嵯峨にある寺院)の奥、大覚寺(同じく京都市右京区嵯峨にある寺院)という山寺の北、菖蒲谷(今の京都市右京区梅ケ畑菖蒲谷)という所に、小松三位中将維盛卿の北の方、若君、姫君が、忍んで住んでいます」と知らせたので、時政はいいことを聞いたとよろこんで、そこへ人を遣わして、その辺りを探っていると、ある房に女房たちが数多く、幼い子どもたちが、忍ぶように住んでいました。籬([目の荒い垣])の間より覗くと、白い子犬が庭に走り出たのを捕まえようとして、世にも美しい若君が、続いて出ようとしたのを、乳母の女房と思われる者が、「外に出てはなりません。人に見られます」と言って、急いで中へ引き入れました。これが若君に違いないと思って、急ぎ走り帰って、このことを話すと、次の日、時政は、菖蒲谷を取り囲んで、人を行かせて申すには、「小松三位中将維盛卿の若君、六代御前がここにおられると聞いて、鎌倉殿(源頼朝)の代理として、北条四郎時政が、お迎えにあがりました。急ぎお出でください」と申したので、母上は夢のような心地がして、何も言えませんでした。斎藤五、斎藤六は、辺りを走り回って窺いましたが、武士たちが四方を取り囲んで、出口さえないような有様でした。


続く


by santalab | 2013-11-19 14:35 | 平家物語

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