母の悲しみ乳母が嘆き、例へん方ぞなかりける。北条も子孫さすが広ければ、これをいみじとは思はねども、世に従ふ習ひなれば力及ばず。中にも小松の三位の中将維盛の卿の若君、六代御前とて、歳も少し大人しうまします。その上平家の嫡々にしておはしければ、いかにもして捕り奉つて失はんとて、手を分けて尋ねけれども、求めかねて、すでにむなしう下らんとしけるところに、ある女房の六波羅に参つて申しけるは、「これより西、遍照寺の奥、大覚寺と申す山寺の北、菖蒲谷と申す所にこそ、小松の三位の中将維盛の卿の北の方、若君、姫君、忍うでましますなれ」と言ひければ、北条うれしきことをも聞きぬと思ひ、かしこへ人を遣はして、その辺を窺はせけるほどに、ある房に女房たちあまた、幼き人々、由々しう忍うだる体にて住まはれたり。籬の隙より覗いて見れば、白い犬の子の庭へ走り出でたるを捕らんとて、世に美しき若君の、続いて出で給ひけるを、乳母の女房と思しくて、「あな浅まし。人もこそ見参らせ候へ」とて、急ぎ引き入れ奉る。これぞ一定そにてましますらんと思ひ、急ぎ走り帰つて、この由申しければ、次の日、北条、菖蒲谷にをうち囲み、人を入れて申されけるは、「小松の三位の中将維盛の卿の若君、六代御前のこれにまします由承つて、鎌倉殿の御代官として、北条の四郎時政が、御迎ひに参つて候ふ。疾う疾う出だし参らさせ給へ」と申されければ、母上夢の心地して、つやつや物をも思え給はず。斎藤五、斎藤六、その辺を走り回つて窺ひけれども、武士ども四方をうち囲んで、いづ方より出だし参らすべしとも思えず。
母の悲しみ乳母の嘆きは、たとえようもありませんでした。北条(北条時政)も子孫が多すぎると、辛く思いましたが、上に従うのが世の習いならば仕方ありませんでした。中でも小松三位中将維盛卿(平維盛。重盛の嫡男で清盛の嫡孫)の若君、六代御前と呼ばれて、歳も少し大きくなっていました。その上平家の嫡々(平正盛から数えて六代目なので、六代です)でしたので、どうにかして捕らえて誅するべきと、手分けして捜していましたが、見つけることができなくて、仕方なく鎌倉に下ろうとしているところに、ある女房が六波羅を訪ねて、「ここより西、遍照寺(今の京都市右京区嵯峨にある寺院)の奥、大覚寺(同じく京都市右京区嵯峨にある寺院)という山寺の北、菖蒲谷(今の京都市右京区梅ケ畑菖蒲谷)という所に、小松三位中将維盛卿の北の方、若君、姫君が、忍んで住んでいます」と知らせたので、時政はいいことを聞いたとよろこんで、そこへ人を遣わして、その辺りを探っていると、ある房に女房たちが数多く、幼い子どもたちが、忍ぶように住んでいました。籬([目の荒い垣])の間より覗くと、白い子犬が庭に走り出たのを捕まえようとして、世にも美しい若君が、続いて出ようとしたのを、乳母の女房と思われる者が、「外に出てはなりません。人に見られます」と言って、急いで中へ引き入れました。これが若君に違いないと思って、急ぎ走り帰って、このことを話すと、次の日、時政は、菖蒲谷を取り囲んで、人を行かせて申すには、「小松三位中将維盛卿の若君、六代御前がここにおられると聞いて、鎌倉殿(源頼朝)の代理として、北条四郎時政が、お迎えにあがりました。急ぎお出でください」と申したので、母上は夢のような心地がして、何も言えませんでした。斎藤五、斎藤六は、辺りを走り回って窺いましたが、武士たちが四方を取り囲んで、出口さえないような有様でした。
(続く)