さるほどに六代御前、やうやう生ひ立ち給うふほどに、十四五にもなり給へば、いとど見目容美しく、あたりも照り輝くばかりなり。母上これを見給ひて、「世の世にてあらましかば、当時は近衛司にてあらんずるものを」とのたまひけるこそあまりのことなれ。鎌倉殿、便宜ごとに、高雄の聖の元へ、「さても預け奉し小松の三位の中将維盛の卿の子息、六代御前は、いかやうの人にて候ふやらん。昔頼朝を相し給ひしやうに、朝怨敵をも平げ、父の恥をも清むべきほどの仁やらん」と申されければ、文覚坊の返事に、「これは一向底もなき深く仁にて候ふぞ。御心易く思し召され候へ」と申されけれども、鎌倉殿なほも心行かずげにて、「謀反起こさば、やがて方人すべき聖の御坊なり。さりながらも頼朝一期が間は、誰か傾くべき、子孫の末は知らず」とのたまひけるこそ恐ろしけれ。
やがて六代御前(平惟盛の子、高清)は成長して、十四五歳になりました、いっそう顔かたち美しくなって、まるでまわりが光り輝くようでした。母上(藤原成親の娘)は六代を見て、「もし平氏の世であったならば、今頃は近衛司(近衛府の役人)になっているでしょうに」と言って残念がっていました。鎌倉殿(源頼朝)は、ある機会ごとに、高雄の聖(高雄とは神護寺のことで、この聖は文覚です。文覚は六代を神護寺で保護していました。神護寺は今の京都市右京区高雄にあります)の元へ、「さて預けている小松三位中将維盛卿の息子、六代御前は、どうしておるのじゃ。昔占ってもらったところ、この国で恨みある仇をすべて討ちとって、父(維盛)の恥を晴らすほどの者だということだ」と言ってきました、文覚は返事に、「六代はまったく情け深い者です。安心してください」と返しましたが、頼朝はそれでも納得できなくて、「もし六代が謀反を起こせば、きっとお前(文覚)は六代の味方をするだろう。しかしわしが生きている間は、わしは誰も滅ぼすことはない、わしの子孫がどうするかは知らないが」と言ってきたので文覚は恐ろしくなりました。
(続く)