文覚、京を出づるとて、「これほどに老いの波に立つて、今日明日を知らぬ身を、たとひ勅勘なればとて、都の片辺にも置かずして、はるばると隠岐の国まで流されける及丁冠者こそ安からね。いかさまにも我が流さるる国へ、迎へ取らんずるものを」と、躍り上がり踊り上がりぞ申しける。この君はあまりに及丁の玉を愛せさせ給ふ間、文覚かやうには悪口申しけるなり。その後承久に御謀反起こさせ給ひて、国こそ多けれ、はるばると隠岐の国まで移されさせましましける、宿縁のほどこそ不思議なれ。その国にて文覚が亡霊荒れて、恐ろしきことども多かりけり。常は御前へも参り、御物語ども申しけるとぞ聞こえし。さるほどに六代御前は、三位の禅師とて、高雄の奥に行ひ済ましておはしけるを、鎌倉殿、「さる人の子なり、さる者の弟子なり。たとひ頭をば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじ」とて、召し捕つて失ふべき由、鎌倉殿より公家へ奏聞申されたりければ、やがて安判官資兼に仰せて召し捕つて、遂に関東へぞ下されける。駿河の国の住人、岡部の権の守泰綱に仰せて、相模の国田越川の傍にて、終に斬られにけり。十二の年より、三十に余るまで保ちけるは、ひとへに初瀬の観音の御利生とぞ聞こえし。三位の禅師斬られて後、平家の子孫は永く絶えにけり。
文覚は、京を去ることになって、「これほど年老いて、今日明日も知れないわしを、たとえ勅勘([天皇から受ける咎])とは言えども、都の近くにも置かずに、はるばる隠岐国まで流す毬杖([正月に木の毬を槌で打って遊ぶ遊戯])冠者(未熟者の意か)を恨むぞ。何としてでもわしが流される国へやって来い」と、飛び上がりながら言いました。この君(後鳥羽天皇)はあまりにも毬杖の玉を好んだので、文覚はこんな悪口を言ったのでした。その後後鳥羽院は承久に謀反を起こして(承久の乱(1221))、国は多くあるのに、はるばると隠岐国に移されましたが、宿縁([前世からの因縁])というのは不思議なものでした。隠岐国では文覚の亡霊が暴れて、恐ろしいことが多くありました。いつも後鳥羽院の御前に現れて、物語したと言われました。六代御前(平六代=高清。維盛の子)は、三位禅師となって、高雄(今の京都市右京区高雄)の山奥で出家していましたが、鎌倉殿(源頼朝)が、「六代は平家の子であり、文覚の弟子である。たとえ頭を剃っても、心は変わらないだろう」と言って、召し捕って誅すべきであると、頼朝から公家へ奏上したので、やがて安判官資兼に命じて六代を捕らえて、関東(鎌倉)に下しました。駿河国の住人、岡部権守泰綱(岡部泰綱)に命じて、相模国の田越川(今の神奈川県逗子市を流れる川)の川傍で、六代を斬りました。十二歳の年より、三十歳余りまで命を永らえたのは、ひとえに初瀬(長谷寺)の観音の利生([仏・菩薩が衆生に与える利益])だと言われました。三位禅師が斬られて後は、平家の子孫は永遠に絶えました。
(続く)