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「平家物語」六代被斬(その5)

文覚もんがく、京を出づるとて、「これほどに老いの波に立つて、今日明日を知らぬ身を、たとひ勅勘ちよくかんなればとて、都の片辺かたほとりにも置かずして、はるばると隠岐の国まで流されける及丁ぎつちやう冠者くわじやこそ安からね。いかさまにも我が流さるる国へ、迎へ取らんずるものを」と、をどり上がり踊り上がりぞまうしける。この君はあまりに及丁の玉を愛せさせ給ふあひだ、文覚かやうには悪口あつこう申しけるなり。その後承久じようきうに御謀反起こさせ給ひて、国こそおほけれ、はるばると隠岐の国まで移されさせましましける、宿縁しゆくえんのほどこそ不思議なれ。その国にて文覚が亡霊ばうれいれて、恐ろしきことども多かりけり。常は御前へもまゐり、御物語ども申しけるとぞ聞こえし。さるほどに六代御前は、三位さんみ禅師ぜんじとて、高雄たかをの奥に行ひ済ましておはしけるを、鎌倉殿、「さる人の子なり、さる者の弟子なり。たとひかしらをば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじ」とて、召し捕つて失ふべき由、鎌倉殿より公家へ奏聞申されたりければ、やがてあん判官資兼すけかぬおほせて召し捕つて、つひに関東へぞ下されける。駿河の国の住人ぢうにん岡部をかべごんかみ泰綱やすつなに仰せて、相模の国田越川たごえがははたにて、終に斬られにけり。じふ二の年より、三十に余るまで保ちけるは、ひとへに初瀬はせ観音くわんおんの御利生りしやうとぞ聞こえし。三位の禅師斬られて後、平家の子孫は永く絶えにけり。




文覚は、京を去ることになって、「これほど年老いて、今日明日も知れないわしを、たとえ勅勘([天皇から受ける咎])とは言えども、都の近くにも置かずに、はるばる隠岐国まで流す毬杖([正月に木の毬を槌で打って遊ぶ遊戯])冠者(未熟者の意か)を恨むぞ。何としてでもわしが流される国へやって来い」と、飛び上がりながら言いました。この君(後鳥羽天皇)はあまりにも毬杖の玉を好んだので、文覚はこんな悪口を言ったのでした。その後後鳥羽院は承久に謀反を起こして(承久の乱(1221))、国は多くあるのに、はるばると隠岐国に移されましたが、宿縁([前世からの因縁])というのは不思議なものでした。隠岐国では文覚の亡霊が暴れて、恐ろしいことが多くありました。いつも後鳥羽院の御前に現れて、物語したと言われました。六代御前(平六代=高清たかきよ維盛これもりの子)は、三位禅師となって、高雄(今の京都市右京区高雄)の山奥で出家していましたが、鎌倉殿(源頼朝)が、「六代は平家の子であり、文覚の弟子である。たとえ頭を剃っても、心は変わらないだろう」と言って、召し捕って誅すべきであると、頼朝から公家へ奏上したので、やがて安判官資兼に命じて六代を捕らえて、関東(鎌倉)に下しました。駿河国の住人、岡部権守泰綱(岡部泰綱)に命じて、相模国の田越川(今の神奈川県逗子市を流れる川)の川傍で、六代を斬りました。十二歳の年より、三十歳余りまで命を永らえたのは、ひとえに初瀬(長谷寺)の観音の利生([仏・菩薩が衆生に与える利益])だと言われました。三位禅師が斬られて後は、平家の子孫は永遠に絶えました。


続く


by santalab | 2013-11-19 20:35 | 平家物語

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