Santa Lab's Blog


「平家物語」大原御幸(その1)

かかりしほどに法皇ほふわうは、文治ぶんぢ二年の春の頃、建礼門院の大原をはら閑居かんきよの御住まひ、御覧ぜまほしう思しめ召れけれども、如月弥生やよひのほどは、嵐激しう余寒もいまだ尽きず。峰の白雪消えやらで、谷のつららもうち溶けず。かくて春過ぎ夏来たつて、北祭も過ぎしかば、法皇夜をこめて、大原の奥へ御幸ごかうなる。忍びの御幸なりけれども、供奉ぐぶの人々には、徳大寺、花山くわざんゐん、土御門以下いげ公卿くぎやう六人、殿上人八人、北面少々せうせうさぶらひけり。鞍馬どほりの御幸なりければ、かの清原きよはら深養父ふかやぶ補堕落寺ふだらくじ小野をの皇太后宮くわうだいこうぐう旧跡きうせき叡覧あつて、それより御輿にぞ召されける。遠山とほやまにかかる白雲は、塵にし花の形見なり。 青葉あをばに見ゆるこずゑには、春の名残りぞしまるる。頃は卯月二十日余りのことなれば、夏草の茂みがすゑを分き入らせ給ふに、初めたる御幸なれば、御覧じ馴れたる方もなく、人跡じんせき絶えたるほども思し召ししられてあはれなり。




やがて法皇(後白河院)は、文治二年(1186)の春の頃、建礼門院の大原の住まいを、御覧になりたいと思いましたが、如月(二月)弥生(三月)は、嵐が激しく寒さが残っていました。峰の白雪も消えてなく、谷のつららも解けていませんでした。こうして春が過ぎて夏がやって来ました、北祭(賀茂神社の例祭であるあふひ祭のこと、四月の中の酉の日に催されたらしい)も過ぎたので、後白河院は夜明け前に、大原の奥に御幸([お出かけ])に出かけました(平家討伐を命じたのが後白河院であることを思うと、何やら複雑な気持ちもします。それでも、清盛出家後に建礼門院徳子が高倉天皇に入内するにあたって後白河院の養女のかたちを取ったらしいので、形式的なものとはいえ建礼門院は後白河院の養子ということになります。なお、忍びということで後白河院のこの御幸の記録は残されていないのですが、スケジュールから見て御幸はなかったのではないかと疑われているようです)。お忍びの御幸でしたが、お供の者たちには、徳大寺(徳大寺実定さねさだ、藤原実定)、花山院(藤原兼雅かねまさ)、土御門(土御門通親みちちか、源通親)以下、公卿(三位以上)が六人、殿上人(三位以上と四位、五位のうち特に許された者、六位蔵人)が八人、北面(院の御所の北面に詰め院中の警備にあたった武士)が少しばかり付添いました。鞍馬(今の京都市左京区)を通る御幸でしたので、かの清原深養父(平安時代中期の歌人、百人首の一人)が建立した補堕落寺(小町寺、補陀洛寺。京都市左京区にあります)、小野皇太后宮の旧跡(後冷泉ごれいぜい天皇(1025~1068)の皇后、藤原歓子よしこが出家して住んだ山荘らしい。出家の理由は皇后間の争いらしいが)をご覧になって、そこからは輿に乗られました。遠山にかかる白雲は、塵のように散ってしまった花の形見のようでした。青葉が芽吹いた枝の先には、春が名残り惜しく思われるのでした。卯月(四月)二十日を過ぎた頃なので、夏草が木々の間に茂り、初めて訪ねる場所だったので、見慣れた景色もなく、人の通った跡さえ絶えてしまったと思えてもの悲しくなるほどでした。


続く


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by santalab | 2013-11-21 12:08 | 平家物語

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