西の山のふもとに、一宇の御堂あり。すなはち寂光院これなり。古う造りなせる前水木立、由ある様の所なり。甍破れては霧不断の香を焚き、枢落ちては月常住の灯を掲ぐとも、かやうの所をや申すべき。庭の若草茂り合ひ、青柳糸を乱りつつ、池の浮草波に漂ひ、錦を晒すかと誤たる。中島の松に懸かれる藤波の、うら紫に咲ける色、青葉まじりの遅桜、初花よりも珍らしく、岸のやまぶき咲き乱れ、八重立つ雲の絶え間より、山ほととぎすの一声も、君の御幸を待ち顔なり。法皇これを叡覧あつて、かうぞ遊ばされける。
池水に 汀の桜散り敷きて 波の花こそ 盛りなりけれ
西の山のふもとに、一棟の御堂がありました。これが寂光院でした。ずいぶん古い造りだと思われて前水([庭先の池])木立は、由縁がある様でした。屋根は破れて霧が室内に立ちこめまるで絶え間なく香を焚いているよう、戸は落ちて月は点けたままの灯を掲げたような、そんな表現がぴったりな場所でした。庭には若草が生い茂って、まるで青柳([青色])の糸を取り散らしたよう、池の浮草は波に漂い、錦を晒しているのかと見誤るほどでした。中島([池の中の島])の松に藤の花が懸かり、薄紫色に咲く花の色や、青葉まじりの遅咲きの桜などは、初花([春に初めて咲く花])よりも珍しく、岸にはやまぶき(バラ科)が咲き乱れ、幾層にも重なる雲の切れ間からは、山ほととぎすの声が聞こえて、御白河院の御幸を待ち望んでいたかのようでした。御白河院はこの景色をご覧になって、こう詠まれました。
池の水に水際の桜が散って一面敷きつめたようだ。この波に浮かぶ花は今が盛りぞ(花は散って終わりと思っていたが、散って後の盛りもあるものだ。さて建礼門院の暮らしぶりはどうだろうか)。
(続く)