さるほどに、寂光院の鐘の声、今日も暮れぬとうち知られ、夕陽西に傾けば、御名残りは尽きせず思し召されけれども、御涙を抑へて、還御ならせたまひけり。女院はいつしか昔をや思し召し出ださせ給ひけん、忍び敢へぬ御涙に、袖の柵堰き敢へさせ給はず。御後を、遙かに覧じ送つて、還御もやうやう伸びさせ給へば、御庵室に入らせ給ひて、仏の御前に向かはせ給ひて、「天子聖霊、成等正覚、一門亡魂、頓証菩提」と、祈り申させ給ひけり。昔はまづ、東に向はせ給ひて、伊勢大神宮、正八幡宮伏し拝ませおはしまし、「天子宝算千秋万歳」とこそ祈り申させ給ひしに、今は引き返へて、西に向はせ給ひて、「過去聖霊、かならず一仏土へ」と、祈らせ給ふこそ悲しけれ。女院はいつしか昔恋しうもや思しめされけん。御庵室の御障子に、かうぞ遊ばされける。
このごろは いつ馴らひてか わが心 大宮人の 恋しかるらん
いにしへも 夢になりにし ことなれば 柴のあみ戸も ひさしからじな
また
御幸の御共に
候はれける、徳大寺の左大将
実定公、御庵室の柱に、書きつけられけるとかや。
いにしへは 月にたとへし 君なれど その光なき 深山辺の里
やがて、寂光院(今の京都市左京区大原にあります。建礼門院が出家した寺院です)の鐘の音が聞こえ、今日も日が暮れたことを知り、夕日もすっかり西に傾いた頃、お名残りは尽きく思えましたが、建礼門院は涙を抑えて、後白河院をお帰しになられました。建礼門院はいつの間にか昔を思い出したのでしょうか、涙をこらえることができなくなって、袖も涙を塞き止めることができませんでした。後白河院の後姿を、遥か遠くまで見送って、後白河院のお帰りになる後姿が見えなくなってから、庵に入って、仏の御前に向かって、「帝(高倉天皇と安徳天皇、建礼門院は高倉天皇の皇后で安徳天皇の生母でした)の御霊よ、迷いを取り去るって完全な悟りを開きなさい、平家一門の成仏できずにいる霊魂たちよ、速やかに悟りを開き極楽往生しなさい」と祈りを捧げました。建礼門院はかつてはまず、東に向かい合わせて、伊勢大神宮(伊勢神宮、今の三重県伊勢市にあります)、正八幡宮(石清水八幡宮、今の京都府八幡市にあります)に伏して拝み、「天子宝算千秋万歳([宝算]=[天子の聖寿、宝寿]、[千秋万歳]=[千年万年、永遠])」と祈りを捧げてから、次に向きを返し、西に向かって、「この世を去った死者の霊よ、かならず浄土へお行きなさい」と、祈っておりましたが悲しい様子でした。建礼門院はいつしか昔を恋しく思わなくなったのでしょうか。庵の障子に、こう書きつけました。
この頃では、いつ馴れてしまったのかはわかりませんが、もうわたしの心は、宮中や宮中に仕える人たちを恋しく思わなくなりました。
遠く過ぎ去った宮中での暮らしも夢のようになってしまいましたので、粗末な雑木で作ったあみ戸の庵の暮らしももう長くないのかもしれません。
また後白河院のお供としておいでになった徳大寺の左大将実定公(徳大寺実定)が、庵室の柱に、書きつけたものでしょうか。
遠い昔は月にもたとえられたあなたですが、今や深山の麓の里で暮らすあなたには、かつての輝きはもう失われてしまったようでした。寂しいことですが。
(続く)