その頃、いと数まへられ給はぬ古宮おはしけり。守貞の親王とぞ聞こえける。高倉の院第三の御子なり。隠岐の法皇の御兄なれば、思へばやむごとなけれど、昔、後白河の法皇、安徳院の筑紫へおはしまして後に、見奉らせ給ひける御孫の宮たち選りの時、泣き給ひしによりて、位にも就かせ給はざりしかば、世の中物怨めしきやうにて過ごし給ふ。さびしく人目稀なれば、年を経て荒れ増さりつつ、草深く八重葎のみさし固めたる宮の中に、いと心細く眺めおはするに、建保の頃、宮の内の女房の夢に、冠したる者数多参りて、「剣璽を入れ奉るべきに、各々用意して候はれよ」と言ふと見てければ、いと怪し思えて、宮に語り聞こえけれど、「いかでかさほどの事あらん」と、思しも寄らで、遂に御髪をさへ下ろし給ひて、この世の御望みは絶ち果てぬる心地して物し給へるに、この乱れ出で来て、一院の御族は、皆様々にさすらへ給ひぬれば、おのづから小さきなど残り給へるも、世にさし放たれて、さりぬべき君もおはしまさぬにより、東よりの掟にて、かの入道の親王の御子の、十になり給ふを、承久三年七月九日、にはかに御位に就け奉る。父の宮をば太上天皇になし奉りて、法皇と聞こゆ。いとめでたく、横さまの御幸ひおはしける宮なり。
その頃、数にも入られておられない古宮がおられました。守貞親王(第八十代高倉天皇の第二皇子)と呼ばれておられました。高倉院の第三皇子(第二皇子)でございました。隠岐の法皇(第八十二代後鳥羽院)の兄でございますれば、思えばご立派なお方でございましたが、昔、後白河法皇(第七十七代天皇)が、安徳院(第八十一代安徳天皇)が筑紫に移られた後、孫たちの中から帝をお選びになろうとされた時、泣かれたので、帝位に就かせになられなかったので、世の中を恨めしく思われて過ごされておられました。寂しく人目も稀でございますれば、年を経て荒れ増さり、草深く八重葎([アカネ科の一年草または二年草])ばかりが生い茂った宮の中で、寂しげに物思いにふけっておられましたが、建保の頃(1213〜1219)の頃、宮の女房の夢に、冠をかぶった者たちが数多く参って、「剣璽([天子の象徴としての剣と印章])をお持ちしました、各々ご用意を」と申すのを見て、不思議に思い、宮(守貞親王)に申し上げましたが、「どうそてそのようなことがあろうか」と、思いもよらず、遂に髪を下ろして、この世の望みを絶ってしまわれたようでございましたが、この乱れ(承久の乱(1221))が起こって、一院(第八十二代後鳥羽院)の一族は、皆所々に流されて、自然と幼い人たちは残っておられましたが、世から隔てられて、帝に立つべき君もおられなかったので、東国(鎌倉幕府)の裁量によって、この入道親王(守貞親王)の子(茂仁王)で、十歳になられていたのを、承久三年(1221)七月九日に、急ぎ帝位に就けられました(第八十六代後堀河天皇)。父の宮は太政天皇(後高倉院)とされて、法皇(天皇を経ずに法皇となった)と呼ばれました。とてもめでたく、思いもしなかった幸福を手に入れられた宮でございました。
(続く)