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「保元物語」新院御謀反思し召し立つ事(その6)

ある夜新院、左大臣殿におほせられけるは、「そもそも、昔を以つて今を思ふに、天智てんぢ舒明じよめいの太子なり。孝徳天皇の皇子、その数おはししかども、位に就き給き。仁明にんみようは嵯峨の第二の皇子、淳和じゆんな天皇の御子たちを欠きて、を踏み給ひき。花山は一条に先立ち、三条は後朱雀に進み給ひき。先蹤せんしようこれおほし。我が身徳行ししと言へども、十善の余薫に答へて、先帝の太子と生まれ、世澆薄げうはくなりと言へども、光来の宝位をかたじけなくす。上皇の尊号に連なるべくは、重仁しげひとこそ人数に入るべき所に、文にもあらず、武にもあらぬ四宮に、位を越られて、父子共に愁ひにしづむ。しかりといへども、故院おはしましつるほどは、力なく二年の春秋ををくれり。今、旧院登霞の後は、我天下を奪はん事、何の憚りかあるべき。定めて神慮にも適ひ、人望にも背かじ物を」と仰られければ、左府、もとよりこの君世を執らせ給はば、我が身摂禄にをひては疑ひなしと喜びて、「もつとも思し召し立つところ、しかるべし」とぞ勧め申されける。




ある夜新院(崇徳院)が、左大臣殿(藤原頼長よりなが)におっしゃるには、「そもそも、昔をもって今を思うと、天智天皇(第三十八代)は舒明天皇(第三十四代)の皇子だった。孝徳天皇(第三十六代。天智天皇の伯父で立太子を経ずに、つまり皇太子ではなくして天皇に就いた)の皇子が、数多くいたが、天智天皇は帝位に就いたのだ。仁明天皇(第五十四代)は嵯峨天皇(第五十二代)の第二皇子だったが、淳和天皇(第五十三代。嵯峨天皇の異母弟。父は桓武天皇)の子を差し置いて、祚([帝位])に就いた。花山天皇(第六十五代)は一条天皇(円融天皇の子、円融天皇は第六十四代天皇)に先立ち、三条天皇(第六十七代)は後朱雀天皇(一条天皇の子、一条天皇は第六十六代天皇)に続いた。先例は多いのだ。わたしは徳行([徳の高い行い])を行ったために、十善([十悪を犯さないこと])の余薫([先人の残した恩恵])に与かって、先帝(鳥羽天皇)の皇子として生まれ、世は澆薄([道徳が衰えて人情のきわめて薄いこと])とは言うが、先帝から宝位([帝位])を恐れ多くも賜わったのだ。わたしも上皇の尊号に重なったのだから、子である重仁こそが帝位を継ぐべきところが、文事にも秀でず、武芸も持たない四宮(鳥羽院の第四皇子、後白河天皇。後白河天皇は、「今様」バカでしたから)に、帝位を盗られて、父子ともに嘆き悲しんでいるのだ。そうはいっても、故院(鳥羽院)がおられる時は、どうしようもなく二年の月日を送ってきた。今、旧院(鳥羽院)が崩御されたのだから、わたしが天下を奪おうとする事に、何の遠慮があるべきか。まったくもって神慮([神のおぼしめし])にも適い、人望にも背かないことだ」とおっしゃったので、左大臣(頼長)は、もしも重仁親王が帝位に就けば、わが身の摂禄([天皇に代わって政治を統括する者])に引き立てられること間違いなしと喜んで、「新院(崇徳院)が思い立つこと、もっともでございます」と促しました。


続く


by santalab | 2013-11-24 12:39 | 保元物語

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