さるほどに、左大臣殿は御輿にて、醍醐路を経て白河殿へ入らせ給ふ。御供には、式部太夫盛憲・弟蔵人大夫経憲・前の滝口秦の助安らなり。御車には、山城前司重綱・管給料業宣二人を乗せられて、御出での体にて宇治より入り給へば、夜半計りに基盛が陣の前をぞ遣り通しける。重綱・業宣、白川殿に参着して、「あな恐ろし。鬼の打ち飼ひになりたりつる」とて、わななひてぞ下りたりける。「漢の紀信が葦車に乗つて、敵陣へ入たりし心にはもつとも似ざりけり」とぞ人々申しける。
そうこうしていると、左大臣(藤原頼長)は輿に乗って、醍醐路を通って白河殿(崇徳院の御所)に入りました。供は、式部太夫盛憲(藤原盛憲)・その弟蔵人大夫経憲(藤原経憲)・前滝口秦助安([滝口]=[宮中の警衛に当たった武士])たちでした。車には、山城前司重綱(源重綱=多田重綱)・管給料業宣(?)二人を乗せて、外出姿で宇治から入ったので、夜中頃に基盛(平基盛。清盛の次男)の陣の前を通り過ぎました。重綱・業宣は、「ああ怖かった。鬼の餌食になるところであった」と言って、ふるえながら車から下りました。「漢の紀信(漢の将軍。項羽と劉邦の戦いで劉邦方。食糧が尽きたので、劉邦に化けて城から出て降伏すると見せかけて、劉邦を助けた。後に劉邦は項羽を破り、前漢初代皇帝となる)が葦車に乗って、敵陣に入っていった気持に似たものだ」と人々は言いました。
(続く)