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「保元物語」新院御所各門々固めの事付けたり軍評定の事(その1)

新院は、斉院の御所より北殿へ移らせ給ふ。左府は車にて参らせ給ふ。白河殿より北、川原より東、春日の末にありければ、北殿とぞ申しける。南の大炊御門おもてに、東西に門二つあり。東の門をばへい馬助忠政ただまさ承つて、父子五人、並びに多田蔵人太夫頼憲よりのり、都合二百余騎にて固めたり。西の門をば六条判官為義ためよし承つて、父子六人して固めたり。その勢百騎計りには過ざりけり。これこそ猛勢なるべきが、嫡子義朝よしともに付きて、多分は内裏へ参りけり。ここに鎮西の八郎為朝ためよしは、「我は親にも連れまじ。兄にも具すまじ。高名不覚もまぎれぬやうに、ただ一人いかにも強からん方へ差し向け給へ。たとひ千騎もあれ、万騎もあれ、一方は射払はんずるなり」とぞ申しける。よつて西川原面の門をぞ固めける。北の春日面の門をば、左衛門太夫家弘いへひろ承つて、子ども具して固めたり。その勢百五十騎とぞ聞こえし。




新院(崇徳院)は、斉院(加茂斉院、禧子よしこ内親王)の御所から北殿に移りました。左大臣(藤原頼長よりなが)は牛車でやって来ました。白川殿(今の京都市左京区)より北、川原(加茂川原)より東、春日小路の末にあるので、北殿と呼ばれていました。南の大炊御門面に、東西に門が二つありました。東の門は平馬助忠政(平忠政)が守り、父子五人と、多田蔵人太夫頼憲(多田頼憲=源頼憲)、合わせて二百騎余りで固めました。西の門は六条判官為義(源為義)が、父子六人で守りを固めました。その勢は百騎を過ぎないほどでした。西門にはもっと軍勢が必要でしたが、為義ためよしの嫡子義朝(源義朝)に付いて、多くの者たちは内裏に参っていました。鎮西の八郎為朝(源為朝。為義の子)は、「わたしは親とも一緒にはならない。兄にも従わないぞ。手柄を取られないように、ただ一人敵が強いと思う方へ差し向けてくれ。たとえ千騎攻めて来ようが、万騎であろうが、一方の敵を射払ってやろう」と言いました。よって西川原面の門を守り固めました。北の春日面の門は、左衛門太夫家弘(平家弘)が守り、子どもを従えて固めました。その勢百五十騎でした。


続く


by santalab | 2013-11-26 08:45 | 保元物語

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