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「保元物語」新院御所各門々固めの事付けたり軍評定の事(その5)

左府すなはち、「合戦の趣き計らひ申せ」とのたまひければ、畏つて、「為朝久しく鎮西に居住仕つて、九国の者ども従へ候ふに付きて、大小の合戦数を知らず。中にも折角せつかくの合戦二十余箇度なり。あるひは敵に囲まれて強陣を破り、あるひは城を攻めて敵を滅ぼすにも、皆利をる事夜討ちにく事侍らず。しかればただ今高松殿に押し寄せ、三方に火をかけ、一方にて支へ候はんに、火を逃れん者は矢をまぬかるべからず、矢を恐れむ者は、火を逃るべからず。主上の御方心憎くも思え候はず。ただし兄にて候ふ義朝などこそ駆け出でんずらめ。それも真中刺して射落とし候ひなん。増して清盛などがへろへろ矢、何ほどの事か候ふべき。鎧の袖にて払ひ、蹴散らして捨てなん。行幸他所へならば、御許されを蒙つて、御供の者、少々射臥する程ならば、定めて駕輿丁がよちやうも御輿を捨てて逃げ去り候はんずらん。その時、為朝参り向かひ、行幸をこの御所へなし奉り、君を御位に就け参らせん事、てのひらを返すが如くに候ふべし。主上を向かへ参らせん事、為朝矢二三を放たんずる計りにて、いまだ天の明けざらむ前に、勝負を決せむ条、何の疑ひか候べき」と憚る所もなく申したりければ、左府、「為朝が申す様、以外の荒義なり。年の若きが致す所や。夜討ちなど言ふ事、汝らが同士軍、十騎二十騎の私事なり。さすが主上・上皇の御国争ひに、源平数を尽くして、両方に有つて勝負を決しせんに、無下にるべからず。その上、南都の衆徒を召さるる事あり。興福寺の信実しんじつ玄実げんじつら、吉野・十津川の指矢三町・遠矢八町と言ふ者どもを召し具して、千余騎にて参るが、今夜は宇治に着き、富家殿の見参に入り、暁ここへ参るべし。かれらを待ち調へて合戦をばいたすべし。また明日、院司ゐんしの公卿・殿上人を催さんに、参ぜざらん者どもをば死罪に行ふべし。首を刎ぬる事二三人に及ばば、残りはなどか参らざるべき」と仰せられければ、為朝、上には承り伏し申して、御前を罷り立てつぶやきけるは、「和漢の先蹤せんしよう、朝廷の礼節には似も似ぬ事なれば、合戦の道をば、武士にこそ任せらるべきに、道にもあらぬ御計らひ、いかがあらむ。義朝は武略の道には奥義をきはめたる者なれば、定めて今夜寄せんとぞ仕り候ふらん。明日までも延ばこそ、吉野法師も奈良大衆も入べけれ。ただ今押し寄せて、風上に火を懸けたらんには、戦とも争ひ利あらんや。敵勝ちに乗る程ならば、誰か一人安穏なるべき。口惜しき事かな」とぞ申しける。




為朝(源 為朝ためとも)が参ると左大臣(藤原頼長よりなが)はすぐに、「戦術について申せ」と言ったので、為朝はかしこまって、「わたしは長い間九州に住んで、九州の者たちを従えさせようと、大小の合戦を数知れぬほど経験しました。中でも骨を折った合戦が二十回ほどあります。ある時は敵に囲まれながら強陣を破り、ある時は城を攻めて敵を滅ぼしましたが、何にせよ勝利を得ることにかけては夜討ちに敵うものはありません。ならば今から高松殿(後白河天皇の御所)へ攻め寄せて、三方に火をつけ、一方で待ち伏せすれば、火から逃れようとする者は矢から逃げられず、矢を恐れる者は、火から逃げることはできないのです。主上(後白河天皇)方の兵たちは逃げることはできません。きっと兄である義朝よしとも(源義朝。頼朝、義経の父)たちが駆け出してくるはずです。それらも真ん中を通して射落としてみせましょう。まして清盛(平清盛)らのへろへろ矢など、対したことはありません。鎧の袖で払い、蹴散らして捨てるだけです。後白河天皇がよそに移ろうとすれば、許しをいただいて、供の者を、少々射ってやれば、きっと駕輿丁([身分の高い人の駕籠や輿を担ぐ役の者])は輿を捨てて逃げてしまうでしょう。そうすれば、わたし為朝が参って、後白河天皇をこの場所にお連れし、君(崇徳院)を天皇に就けることなど、手のひらを返すほどに簡単なことではありませんか。後白河天皇を連れて参るのに、わたしがたかだか矢を二三本射るだけで、夜が明ける前に、勝負が決まるのです、何の疑いもありません」と臆することなく申しましたが、左大臣(頼長)は、「為朝が申す方法は、あまりにも乱暴です。年が若いからでしょう。夜討ちなどは、身内の戦、十騎二十騎ほどの私事のようなものに用いる方法です。さすがに主上(後白河天皇)・上皇(崇徳院)の国の争いに、源平数を尽くして、両軍で勝負をつけようとしているときに、そのような方法を取るべきではありません。その上、奈良の衆徒([僧兵])たちを呼び集めてあります。興福寺の信実(大和源氏の子らしい)・玄実らが、吉野・十津川の指矢三町・遠矢八町(これまた大げさな)という者どもを連れて、千騎余りで向かっていますが、今夜は宇治(今の京都府宇治市)に着き、富家殿(藤原忠実ただざね。頼長の父)と対面し、夜明け前にはここへやって来ます。かれらを待ってから合戦をするべきです。また明日は、崇徳院に仕える公卿・殿上人を呼び出しておりますので、参らなかった者たちは死罪にします。首を刎ねる者が二三人にもなれば、残りの者たちは必ずややって参りましょう」と申したので、為朝は、崇徳院に了承して伏しましたが、御前を立ち去る際につぶやくには、「和漢([日本と中国])の前例、朝廷の礼節([礼儀と節度])にも似ても似つかない事だから、合戦の方法は、武士に任せればよいものを、戦法ともいえないような計画を立てて、いったいどうなることか。義朝は武略には奥義を極めた者だから、きっと今夜攻めて来ることだろう。明日まで待てば、吉野法師も奈良大衆も京に入ってくることは知っているはず。すぐにも敵が押し寄せて、風上に火をつけられれば、この戦に勝つことはない。敵が勝ちの勢いに乗ったならば、味方はだれ一人として安穏とはしていられないだろう。悔しいことだ」と言いました。


続く


by santalab | 2013-11-26 11:28 | 保元物語

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