さるほどに、内裏は高松殿なりしが、分内狭くて便宜悪しかりなんとて、にはかに東三条殿へ行幸なる。主上は御引直衣にて、腰輿に召さる。神璽・宝剣を取つて、御輿に入り参らせらる。御供の人々には、関白殿・内大臣実能・左衛門督基実・右衛門督公能・頭中将公親朝臣・左中将光忠・蔵人少将忠親・蔵人右少弁資長・右少将実宣・少納言入道信西・春宮学士俊憲・蔵人治部太輔雅頼・大外記師季らなり。武士の名字は記すに及ばず。
さるほどに後白河天皇の、内裏は高松殿(かつて今の京都市中京区あたりにあった)でしたが、手狭になって使い勝手が悪いと、急に東三条殿(かつて高松殿の北隣りにあった)に移りました。主上(後白河天皇)は御引直衣([天皇が日常に用いた身丈の長い直衣])で、腰輿([前後二人で担架のように運ぶ輿])に乗りました(となりなので歩けばよいと思うのは僕だけですかね)。神璽([三種の神器の一。八尺瓊勾玉])・宝剣([三種の神器の一。草薙剣])を持って、輿に乗られました。お供の者たちは、関白殿(藤原忠通)・内大臣実能(徳大寺実能=藤原実能)・左衛門督基実(近衛基実=藤原基実)・右衛門督公能(徳大寺公能=藤原公能。実能の子)・頭中将公親朝臣(三条公親=藤原公親)・左中将光忠(藤原光忠)・蔵人少将忠親(中山忠親=藤原忠親)・蔵人右少弁資長(藤原資長)・右少将実宣(藤原実宣)・少納言入道信西(俗名藤原通憲)・春宮学士俊憲(藤原俊憲)・蔵人治部太輔雅頼(源雅頼)・大外記師季(藤原師季)たちでした。武士の名字は記す及びませんでした。
(続く)