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「保元物語」新院讃州に御遷幸の事並びに重仁親王の御事(その2)

夜に入りて新院の一の宮を、「父のおはします時、何様にもなり奉れ」とて、花蔵院の僧正寛暁かんげうが坊へ渡し奉る。御供には右衛門大史章盛あきもり・左兵衛尉光重みつしげなり。僧正しきりに辞し申されけれども、勅定背き難くして請け取り奉らる。既に御出家ありしかば、年来日頃、春宮にも立て、位にも就かせ給はんとこそ待り奉るに、かく思ひの外に御飾りをろす事の悲しさよと、付き参らせたる女房たち、泣き悲しむぞあはれなる。この宮は、故刑部卿忠盛ただもり朝臣、御乳おち人にてありしかば、清盛・頼盛よりもりは見放ち奉るまじけれども、余所になるこそ哀れなれ。明ければ二十三日、いまだ夜深きに、仁和寺を出でさせ給ふ。美濃前司保成やすなり朝臣の車を召さる。佐渡式部大夫重成しげなりが郎等ども、御車をさし寄せて、先づ女房たち三人を御車に乗せ奉る。その後、仙院召されければ、女房たち、声を調のへて泣き悲しみ給ふ。誠に日頃の御幸には、ひさしの車を庁官などの寄せしかば、公卿・殿上人、庭上に下り立ち、御随身左右に連なり、官人・番長、前後に歩み従ひしに、これは怪しげなる男、あるひは甲冑をよろふたる兵なれば、目も暮れ心も迷ひて、泣き悲しむもことはりなり。




夜になって新院(崇徳院)の一の宮(重仁しげひと親王)は、「父が都におられるうちに、出家したいのです」と申したので、崇徳院は一の宮を花蔵院(今の京都市右京区にある仁和寺にあった寺の一つらしい)の僧正寛暁(堀河天皇の皇子だったらしい)の僧坊に移されました。供は右衛門大史章盛・左兵衛尉光重でした。僧正(寛暁)はしきりに辞退しましたが、勅定(崇徳院の命令)ならば反対もできなくて了承しました。重仁親王はすぐに出家することになりましたが、崇徳院は長年、春宮([皇太子])に立てて、帝位にも就かせようと思っていましたので、こうして思いのほか頭を丸めることになって悲しいと、重仁親王に付き参った女房たちが、泣き悲しむのは哀れなことでした。重仁親王は故刑部卿忠盛朝臣(平忠盛。清盛の父)が、御乳人(忠盛の妻、藤原宗子むねこが重仁親王の乳母)でしたので、清盛(平清盛)・頼盛(平頼盛。清盛の異母弟)が重仁親王を見捨てることはありえませんでしたが、離れてしまうのは悲しいことでした。明けて七月二十三日の、まだ夜深い頃に、崇徳院は仁和寺を出て行きました。美濃前司保成朝臣(藤原保成)の車を呼びました。佐渡式部大夫重成(源重成)の家臣たちが、車を寄こして、まず女房たち三人を車に乗せました。その後に、仙院(崇徳院)が乗ったので、女房たちは、声を合わせて泣き悲しみました。いつもの御幸([上皇の外出])には、庇の付いた車を庁官(役人)が寄せると、公卿([大臣、納言、参議])・殿上人([三位以上と四位、五位のうち特に許された者])が、庭上に下り立ち、崇徳院の左右に並んで、官人・番長([随身]=[供の者])は、前後に従い付いていましたが、この度ばかりは怪しげな男や、甲冑を着た兵でしたので、女房たちは目もくらみ落ち着かなくて、泣き悲しむのも当然のことでした。


続く


by santalab | 2013-11-28 17:56 | 保元物語

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