主もなき空しき船どもは、潮に引かれ風に従ひて、いづちを指すともなく、揺られて行くこそ悲しけれ。生け捕りには、前の内大臣宗盛公、平大納言時忠、衛門の督清宗、内蔵の頭信基、讃岐の中将時実、大臣殿の八歳の若君、兵部の少輔尹明、僧には二位の僧都全真、法性寺の執行能円、中納言の律師忠快、経誦坊の阿闍梨祐円、侍には源大夫の判官季貞、摂津の判官盛澄、藤内左衛門の尉信康、橘内左衛門の尉季康、阿波の民部成良父子、以上三十八人なり。菊池の次郎隆直、原田の大夫種直は、戦以前より兜を脱ぎ、弓の弦を外いて、降人に参る。女房たちには、女院、北の政所、廓の御方、大納言の佐殿、帥の佐殿、治部卿の局以下、以上四十三人とぞ聞こえし。元暦二年の春の暮れ、いかなる年月にて、一人海底に沈み、百官波上に浮かぶらん。国母官女は、東夷西戎の手に従ひ、臣下卿相は、数万の軍旅に捕らはれて、旧里へ帰り給ひしに、あるひは朱買臣が錦を着ざることを嘆き、あるひは王昭君が胡国に赴きし恨みも、これには過ぎじとぞ見えし。
主がいなくなった空しい船は、潮に引かれ風に吹かれて、どこを目指すともなく、揺られて行きましたが哀れなことでした。生け捕りになったのは、前内大臣宗盛公(平宗盛。平清盛の三男)、平大納言時忠(平時忠。清盛の義弟)、衛門督清宗(平清宗。宗盛の嫡男)、内蔵頭信基(平信基)、讃岐中将時実(平時実)、大臣殿(宗盛)の八歳の若君、兵部少輔尹明(平尹明)、僧では二位僧都全真(藤原親隆の子らしい)、法性寺(京都市東山区にある寺)の執行([寺の長官])能円(藤原盛憲の子)、中納言の律師忠快(清盛の弟平教盛の子)、経誦坊の阿闍梨祐円、侍では源大夫判官季貞(飯富季貞=源季貞)、摂津判官盛澄(平盛澄)、藤内左衛門尉信康(藤原信康)、橘内左衛門尉季康(橘季康)、阿波民部成良父子(田口成良とその子教能)、以上三十八人でした。菊池次郎隆直(菊池隆直)、原田大夫種直(原田種直)は、戦の前に兜を脱ぎ、弓の弦を外して降人となりました。女房たちでは、女院(第八十一代安徳天皇の生母建礼門院=清盛の娘徳子)、北の政所(清盛の三男宗盛の継室)、廓の御方(常磐御前の娘。三条殿)、大納言佐殿(藤原輔子。清盛の五男重衡の妻)、帥佐殿(平時忠の妻藤原領子)、治部卿局(清盛の四男平知盛の正室)以下、以上四十三人と言われました。元暦二年(1185)の春の暮れのことでした、どういう定めによって、ある者は一人海底に沈み、百官([数多くの役人])は波の上に浮かぶのでしょうか。国母([天子の母])官女は、東夷([無骨で粗野な東国武士])西戎([西方の異民族])に引かれ、臣下([君主に仕える者])卿相([公卿])は、数万の軍旅([軍勢])に捕らわれて、旧里(京)に帰ることになりましたが、ある者はまるで朱買臣(前漢の者。貧しい家に生まれたが前漢第七代武帝に認められて太守=国守として旧里である会稽郡に帰る時、昔のままの貧しい身なりをして戻ったらしい)が錦の服を着なかったようだと嘆き、ある者は王昭君(前漢の者。中国四大美人の一人)前漢第十代元帝の命によって胡国=中国北方の異民族の国。に嫁いだ)に赴いた恨みも、これには過ぎないと思えました。
(続く)