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「平家物語」内侍所都入(その2)

主もなき空しき船どもは、しほに引かれ風に従ひて、いづちを指すともなく、揺られて行くこそ悲しけれ。生け捕りには、さきの内大臣宗盛むねもり公、平大納言時忠ときただ衛門ゑもんかみ清宗きよむね内蔵くらかみ信基のぶもと、讃岐の中将ちうじやう時実ときざね、大臣殿の八歳の若君、兵部ひやうぶ少輔せふ尹明まさあきら、僧には二位にゐ僧都そうづ全真せんしん法性寺ほつしようじ執行しゆぎやう能円のうゑん中納言ちうなごんの律師忠快ちうくわい経誦坊きやうじゆばう阿闍梨あじやり祐円ゆうゑん、侍には源大夫げんだいふの判官季貞すゑさだ摂津の判官盛澄もりずみ藤内左衛門とうないさゑもんじよう信康のぶやす橘内左衛門きちないさゑもんの尉季康すゑやす阿波あはの民部成良しげよし父子ふし以上いじやうじふ八人なり。菊池の次郎じらう隆直たかなほ、原田の大夫種直たねなほは、いくさ以前より兜を脱ぎ、弓の弦をはづいて、降人かうにんまゐる。女房たちには、女院、北の政所、らふの御方、大納言のすけ殿、そつの佐殿、治部卿ぢぶきやうの局以下いげ、以上四十しじふ三人とぞ聞こえし。元暦げんりやく二年の春の暮れ、いかなる年月にて、一人いちじん海底にしづみ、百官ひやくくわん波上はしやうに浮かぶらん。国母こくも官女くわんぢよは、東夷とうい西戎せいじゆの手に従ひ、臣下卿相けいしやうは、数万すまん軍旅ぐんりよに捕らはれて、旧里きうりかへり給ひしに、あるひは朱買臣しゆばいしんが錦を着ざることを嘆き、あるひは王昭君わうぜうくん胡国ここくに赴きし恨みも、これには過ぎじとぞ見えし。




主がいなくなった空しい船は、潮に引かれ風に吹かれて、どこを目指すともなく、揺られて行きましたが哀れなことでした。生け捕りになったのは、前内大臣宗盛公(平宗盛。平清盛の三男)、平大納言時忠(平時忠。清盛の義弟)、衛門督清宗(平清宗。宗盛の嫡男)、内蔵頭信基(平信基)、讃岐中将時実(平時実)、大臣殿(宗盛)の八歳の若君、兵部少輔尹明(平尹明)、僧では二位僧都全真(藤原親隆ちかたかの子らしい)、法性寺(京都市東山区にある寺)の執行([寺の長官])能円(藤原盛憲もりのりの子)、中納言の律師忠快(清盛の弟平教盛のりもりの子)、経誦坊の阿闍梨祐円、侍では源大夫判官季貞(飯富おぶ季貞=源季貞)、摂津判官盛澄(平盛澄)、藤内左衛門尉信康(藤原信康)、橘内左衛門尉季康(橘季康)、阿波民部成良父子(田口成良とその子教能のりよし)、以上三十八人でした。菊池次郎隆直(菊池隆直)、原田大夫種直(原田種直)は、戦の前に兜を脱ぎ、弓の弦を外して降人となりました。女房たちでは、女院(第八十一代安徳天皇の生母建礼門院=清盛の娘徳子とくこ)、北の政所(清盛の三男宗盛むねもりの継室)、廓の御方(常磐御前の娘。三条殿)、大納言佐殿(藤原輔子すけこ。清盛の五男重衡しげひらの妻)、帥佐殿(平時忠ときただの妻藤原領子むねこ)、治部卿局(清盛の四男平知盛とももりの正室)以下、以上四十三人と言われました。元暦二年(1185)の春の暮れのことでした、どういう定めによって、ある者は一人海底に沈み、百官([数多くの役人])は波の上に浮かぶのでしょうか。国母([天子の母])官女は、東夷([無骨で粗野な東国武士])西戎([西方の異民族])に引かれ、臣下([君主に仕える者])卿相([公卿])は、数万の軍旅([軍勢])に捕らわれて、旧里(京)に帰ることになりましたが、ある者はまるで朱買臣(前漢の者。貧しい家に生まれたが前漢第七代武帝に認められて太守=国守として旧里である会稽郡に帰る時、昔のままの貧しい身なりをして戻ったらしい)が錦の服を着なかったようだと嘆き、ある者は王昭君(前漢の者。中国四大美人の一人)前漢第十代元帝の命によって胡国=中国北方の異民族の国。に嫁いだ)に赴いた恨みも、これには過ぎないと思えました。


続く


by santalab | 2013-11-29 07:45 | 平家物語

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