「さりながら、矢一射てこそ腹をも斬らめ」とて、立ち向かひ給ふが、最後の矢を手浅く射たらむも無念なりと思案し給ふところに、一陣の船に、究竟の兵三百余人射向ひの袖をさしかざし、船を乗り傾けて、三町ばかり渚近く押し寄せたり。御曹子は矢頃少し遠けれども、件の大鏑を取つて継がひ、小肘の回るほど引き詰めて兵ど放つ。水際五寸ばかりを射て、大舟の腹を穴たへつと射通せば、両方の矢目より水入りて、船は底へぞ舞ひ入りける。水心ある兵は、楯・掻楯に乗つて漂ふ所を、櫓・櫂・弓の筈に取り付きて、並びの船へ乗り移りてぞ助かりける。為朝これを見給ひて、「保元の古は、矢一筋にて二人の武者を射殺しき。嘉應の今は一矢に多くの兵を殺しおわりぬ。南無阿弥陀仏」とぞ申されける。今は思ふ事なしとて、内に入り、家の柱を後ろに当てて、腹掻き切つてぞ居給ひける。
為朝(源為朝)は、「そうとはいえ、矢を一本射てから腹を斬ろう」と言って、敵に立ち向かいましたが、最後の矢を軽く討つのも無念と思っているところに、一陣の船で、最強の兵三百人余りが矢の向きの袖をふり上げて、船に乗って、三町(一町は約109m)ほどの渚近くに押し寄せてきました。為朝は矢の距離が少し遠いと思いましたが、いつもの大鏑([大きな鏑矢、鏑矢は音を発する矢])を弓に継ぎ、肘が回るほど引いてから兵に向かって放ちました。水際五寸(一寸は約3cm)ばかりの所を射て、大船の腹に穴を開けて射通したので、両方の矢目より水が入って、船は海の底へ舞いながら沈んでしまいました。泳ぎのできる兵たちは、手楯・掻楯([大形の楯])に乗って海に漂っているところを、櫓・櫂・弓の先端に取り付いて、仲間の船に乗り移って助かりました。為朝はこれを見て、「保元の昔は、矢一本で二人の武者を射殺したものだ。嘉應(高倉天皇の時代です。為朝が亡くなったのは1170年のことらしい)の今は一矢で多くの兵を殺してしまった。南無阿弥陀仏」と唱えました。今は思い残すことはないと言って、殿の内に入り、家の柱を背中に当てて、腹を切りました。
(源為朝の子、為頼ですが、為朝に刺殺されたと思いきや、後の歴史に度々登場するのです。「保元物語」も所詮、「物語」ですから、こういった創作があって当然なのですが、『平家物語』にも「自害」したはずの「北の方」たちが、後の歴史に登場することがままありますしね。)
(続く)