信頼やがて、この人々を呼びて、頼むべき由のたまへば、「一門の中の大将、すでに従ひ奉る上は、左右に能はず」とて帰りければ、大きに喜んで、同じ九日の夜子の刻ばかりに、信頼卿、左馬頭義朝を大将として、その勢五百余騎、院の御所三条殿へ押し寄せ、四方の門々をうち固め、右衛門督乗りながら、南庭にうつ立つて、「年来御いとおしみを蒙りつるに、信西が讒によつて、信頼討たれ参らすべき由承ひ候ふ間、しばしの命助からんために、東国の方へこそ罷り下り候へ」と申せば、上皇大きに驚かせ給ひて、「何者が信頼をば失ふべかんなるぞ」とて、あきれさせ給へば、伏見源中納言師仲卿、御車をさし寄せ、急ぎ召さるべき由申されければ、「早や火をかけよ」と声々にぞ申しける。上皇慌てて御車に召さるれば、御妹の上西門院も、一つ御所に渡らせ給ひけるが、同じ御車にぞ奉りける。信頼・義朝・光泰・光基・季実ら、前後左右にうち囲みて、大内へ入り参らせ、一本御書所に押し籠め奉る。やがて佐渡式部大夫重成・周防判官季実、近く候じて君をば守護し奉る。さてもこの重成は、保元の乱の時も、讃岐院の仁和寺の寛遍法務が坊に渡らせ給ひしを、守護し奉て、讃州へ御配流ありし時も、鳥羽まで参りし者なり。いかなる故にや、二代の君を守護し参らすらんと、人々申し合へり。
信頼(藤原信頼)はすぐに、これらの者たち(源頼政・源光泰・源光基・源季実ら)を呼び出して、合戦に加わるよう言うと、「源氏の大将が、すでに従ったからには、当然のことです」と言って帰っていったので、信頼はとても喜びました、十二月九日の夜子の刻(午前零時)頃に、信頼は、左馬頭義朝(源義朝)を大将として、その勢五百騎余りで、院の御所である三条殿へ集まって、四方の門を守りました、右衛門督(信頼)は馬に乗って、南庭に立って、「日頃より重用していただいておりますが、信西の讒言により、わたしが討たれるとの話を聞きました、しばらくの命を助かるために、後白河院は東国へ移ってくださいませ」と申せば、上皇(後白河院)は大変驚いて、「いったい何者が信頼を殺すというのだ」と言って、唖然としたので、伏見源中納言師仲卿(源師仲)が、車を寄せて、急いで移られるよう申すと、「早く火をかけよ」と声々に言いました。後白河院が慌てて車に乗ると、妹の上西門院(統子内親王)も、同じ所に居ましたが、後白河院と同じ車に乗りました。信頼・義朝・光泰・光基・季実たちは、車の前後左右を囲んで、大内([内裏])へ移し、一本御書所([内裏にあり宮中の書物を管理した殿])に幽閉してしまいました。すぐに佐渡式部大夫重成(源重成)・周防判官季実が、後白河院を守りました。この重成は、保元の乱の時も、讃岐院(崇徳院)が仁和寺の寛遍法務の宿坊に移られた時に、崇徳院を守護し、讃州(讚岐国)に配流になった時も、鳥羽(今の京都市南区)まで付き添った者でした。どういう縁で、二代の君を守護することになったのかと、人々は言い合いました。
(『保元物語』の「新院讃州に御遷幸の事並びに重仁親王の御事」に、「佐渡式部大夫重成が郎等ども、御車をさし寄せて、先づ女房たち三人を御車に乗せ奉る。その後、仙院召されければ」とあります。)
(続く)