その後豊葦原の中つ国の主として天孫を下し奉り給ひし時、この剣をも御鏡に添へて奉らせ給ひけり。第九代の帝開化天皇の御時までは一つ殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及んで、霊威に怖れて天照大神を大和国笠縫邑磯堅の広きに移し奉り給ひし時、この剣をも天照大神の社壇に籠め奉らせ給ひけり。その時剣を造り替へて御守とし給ふ。霊威本の剣に相劣らず。 天叢雲剣は崇神天皇より景行天皇まで三代は天照大神の社壇に崇め置かれたりけるを、景行天皇の御宇四十年六月に東夷反逆の間、御子日本武尊、御心も剛に御力も人に勝れておはしければ、成選に当つて東へ下り給ひし時、天照大神へ詣でて御暇申させ給ひけるに、御妹五百城の尊を以つて謹しむとも怠る事なかれとて霊剣を尊に授け申し給ふ。
その後豊葦原の中つ国([日本])の主として天孫([天つ神の子孫])を降臨させた時、この剣(天叢雲剣)を鏡(八咫鏡)に添えて与えたのでした。第九代の帝開化天皇の時代までは正殿(紫宸殿)に安置されていましたが、第十代の帝崇神天皇の時代になって、霊威に怖れて天照大神を大和国の笠縫邑(場所は不詳)磯堅城(伊勢神宮内宮の起源)に移された時、天叢雲剣も天照大神の社壇に納められました。その時天叢雲剣を造り替えて守護神としました。霊威は元の剣に劣りませんでした。天叢雲剣は景行天皇(第十二代天皇)まで三代は天照大神の社壇に納められていましたが、景行天皇の時代四十年(110)六月に東夷([東国の者])が反逆を企てたので、景行天皇の子であった日本武尊は、心も強く力も人に勝れていたので、成選([官吏が位階を上げるために候補として選考されること])されて東国に下る時、天照大神へ詣でて別れを申すと、景行天皇は日本武尊の妹五百城尊(五百城入姫皇女)を遣わして用心せよ気を抜くでないと申して霊剣(天叢雲剣)を日本武尊に授けました(日本武尊は素盞烏尊の生まれ変わりだともいわれています)。
(続く)