この君の御乳母の夫にて少納言通憲は藤家の儒門より出でたり。宏才博覧の人なりき。されど時に遭はずして、出家したりしに、この御世にいみじく用ゐられて、内々には天下の事さながら計らひ申しけり。大内は白河の御代より久しく荒廃して、里内にのみましまししを、謀を廻らし、国の費えもなく造り立てて、絶えたる公事どもを申し行ひき。すべて京中の道路なども払ひ清めて昔に帰りたる姿にぞありし。
この君(第七十七代後白河天皇)の乳母(藤原朝子)の夫であった少納言通憲(藤原通憲)は藤原氏の儒門([儒官])の出でした。宏才([才知が幅広いこと])博覧([広く書物を読んだり見聞したりして、物事をよく知っていること])の人でした。けれども機に恵まれず、出家していましたが(信西)、後白河院の御宇にたいそう重用されて、内では天下の事をすべて取り仕切っていました。大内裏は白河天皇(第七十二代天皇)の時代より長く荒廃して、天皇は里内裏([内裏の外に,外戚などの邸を一時的に内裏として用いたもの])ばかりにおられるようになっておりましたが、計略(保元新制)をもって、国の負担もなしに大内裏を修復し、絶えていた公事([朝廷の政務・儀式])も復活させました。京中すべての道路も改装したので都はかつての姿を取り戻しました。
(続く)