その故は、久寿二年の冬の頃、鳥羽の禅定法皇、熊野山に御参詣ありしに、その頃那智山に唐僧あり。名をば淡海沙門と言ふ。かの僧、異国にて、我この身を捨てずして、生身の観音を拝み奉らんと言ふ願を起こし、天に仰ぎて一千日の間祈請をなす。千日に満じける夜、「汝生身の観音を拝まんと思はば、日域に渡つて、那智山と言ふ所に赴け」と天の示現を蒙り、渡海の本望を遂げて、かの山に参籠せるなり。法皇この由聞こし召して、唐僧を召されければ、御前へ参つて、「和尚、和尚」礼す。唐僧なれば、語を聞き知ろし召す人なし。ただ鳥のさへづる如くなりしを、信西末座に候ひけるが、「禅加此法誤除浄精にて来たれるか」と問へば唐僧のいはく、「さにあらず弘誓破戒説除大精にて来たるなり」と答ふ。
その訳は、久寿二年(1155)の冬の頃、鳥羽の禅定法皇(鳥羽院)が、熊野山(熊野三山)に参詣しましたが、その頃那智山(今の和歌山県那智勝浦町にあります)にこの唐僧はいました。名を淡海沙門([沙門]=[僧となって仏法を修める人])と言いました。この僧は、異国(中国)で、この身がこの世にあるうちに、生身の観音を拝みたいという願を立て、天を仰いで一千日に間祈願しました。千日が満願する夜に、「汝よ生身の観音を拝みたいと思うのなら、日域([日本])に渡り、那智山と言う所へ行きなさい」と天の示現([神仏のお告げ])があったので、渡海の本望を遂げて、那智山に籠っていたのです。鳥羽院がこれをお聞きになって、淡海を呼び出して、御前に参ると、鳥羽院は「和尚([修行を積んだ僧の敬称])、和尚」と声をかけられました。唐僧なので、言葉が分かる者はいませんでした。ただ鳥がさえずるようでしたので、末席に居た信西が、「おぬしは禅加此法誤除浄精(仏法の力を借りてこの世の罪を取り除くの意か?)ために日本にやって来たのか」と聞くと淡海は、「そうではなく弘誓破戒説除大精([弘誓]=[衆生を救おうとしてたてた菩薩の誓願]を[破戒]=[戒律を破ること]しようとする力を取り除き清らかにするの意か?)のために来たのです」と答えました。
(続く)