しかるを天武天皇朱鳥元年にこれを召して内裏に置かる。今の宝剣これなり。御霊威逸早うまします。陽成院狂病に冒されましまして霊剣を抜かせ給ひければ、夜の御殿閃々として電光に異ならず。恐怖の余りに投げ棄てさせ給ひければ、自らはたと鳴りて鞘に差されにけり。上古にはかうこそ目出たかりしか。たとひ二位殿脇に差して海に沈み給ふとも容易う失すべからずとて、勝れたる海士人どもを召して潜き求められける上、霊仏霊社に貴き僧を籠め種々の神宝を捧げて祈り申されけれども、終に失せにけり。その時の有職の人々申し合はれけるは「昔天照大神百王を守らんと御誓ひありけるその誓ひ未だ改まらずして石清水の御流れ未だ尽くせざる故、日輪の光未だ地に落とさせ給はず、末代澆季なりとも帝運の究まる程の事はあらじかし」と申されければ、その中に、ある博士の勘へ申しけるは「昔出雲国斐伊の川上にて素盞烏尊に切り殺され奉し大蛇、霊剣を惜む心ざし深くして八つの首八つの尾を表事として人王八十代の後、八歳の帝となりて霊剣を取り返して海底に沈み給ふにこそ」と申す。千尋の海の底、神龍の宝となりしかば二度と人間に返らざるも理とこそ思えけれ。
天武天皇(第四十代天皇)の時代朱鳥元年(686)にこれを取り寄せて内裏に置きました。今の宝剣はこれでした。霊威は逸早く([霊威・霊験が著しく恐ろしい])ありました。陽成院(第五十七代天皇)が狂病([精神病])に冒されて霊剣を抜くと、夜の御殿([清涼殿の中にある天皇の寝所])が閃々([きらきらと輝く様])と光り電光を放ったようでした。陽成院が恐怖のあまり霊剣を投げ捨てると、霊験はみずから鞘に納まりました。上古にはこのようにありがたいことがありました。たとえ二位殿(平清盛の継室時子)が脇に差して海に沈むとも容易く失うべきでないと、優れた海士人(海士は男、海女は女)たちを集めて海に潜らせ探させた上に、霊仏霊社に有験の僧を籠めて種々の神宝を捧げて祈らせましたが、終に見つかることはありませんでした。その時有職([学識のあること])の者たちが申し合うには「昔天照大神が百王([代々の王])を守ろうと誓われたがその誓いはまだ変わらぬ上石清水(京都府八幡市の石清水八幡宮)の嫡流もまだ絶えないのであるから、日輪([太陽])が地に落ちることもなく、末代([道義の衰えた末の世])澆季([道徳が衰え、乱れた世])と言えども帝運が衰えることはありません」と申すと、その中に、ある博士が鑑みて申すには、「昔出雲国の斐伊川(島根県東部を流れる川)の川上で素盞烏尊に切り殺された大蛇(八岐大蛇)が、霊剣を憎む心の深さを示すため人王([人皇]=[初代神武天皇以後の天皇])八十代を経て、八歳の帝(第八十一代安徳天皇)となって霊剣を取り返して海底に沈んだのであろう」と言いました。千尋の海の底に沈み、神龍の宝となったのであれば二度と人間に返らないのも当然のことに思えました。
(続く)