右衛門の督藤原の信頼と云ふ人あり。上皇いみじく寵せさせ給ひて天下の事をさへ任せらるるまでなりにければ、驕りの心きざして近衛の大将を望み申ししを通憲法師諌め申して止みぬ。その時源の義朝朝臣が清盛朝臣に抑へられて恨みを含みけるを相語らひて反逆を思ひ企てけり。保元の乱には、義朝が功高く侍りけれど、清盛は通憲が縁者になりて事のほかに召し使はる。通憲法師・清盛らを失ひて世を欲しきままにせんとぞ計らひける。清盛熊野に詣でける隙を窺ひて、先づ上皇御座の三条院と云ふ所を焼きて大内に移し給ふ。主上も傍らに押し籠め奉る。通憲法師遁れ難くやありけむ、みづから失せぬ。その子どもやがて国々へ流し遣はす。通憲も才学あり、心も賢しかりけれど、己が非を知り、未萌の禍ひを防ぐまでの智分や欠けたりけむ。信頼が非を諌め申しけれど、我が子どもは顕職・顕官に上り、近衛の次将なむどにさへなし、参議以上に上がるもありき。かくて失せにしかば、これも天意に違ふところありと云ふことは疑ひなし。清盛このことを聞き、道より上りぬ。信頼語らひ置きける近臣らの中に心変はりする人々ありて、主上・上皇を忍び出だし奉り、清盛が家に移し申してけり。すなはち信頼・義朝らを追討せらる。ほどなくうち勝ちぬ。信頼は捕らはれて首を斬らる。義朝は東国へ心ざして遁れしかど、尾張の国にて討たれぬ。その首を梟せられにき。
右衛門督藤原信頼という人がいました。後白河上皇(第七十七代天皇)がたいそう寵愛されて天下の事をさえ任せるようになられたので、慢心の心を持つようになって近衛大将になりたいと申し上げましたが通憲法師(藤原通憲=信西)がとんでもないことと諌め申したので信頼は近衛大将になれませんでした。その頃源義朝朝臣(源頼朝の父)は清盛朝臣(平清盛)ばかりが出世することを恨んでいたので共謀して平家に対する反逆を思い立ったのでした(平治の乱(1159))。保元の乱(1156)では、義朝の武功は高いものでしたが、清盛は通憲の縁者(『平家物語』の「吾身栄花」に、清盛の長女が信西の三男桜町中納言=藤原成範の妻になるはずだったと書かれています)になって格別の待遇を受けていました。信頼は通憲法師(信西)・清盛たちを亡き者にして世を思うがままにしたいと考えてのことでした。清盛が熊野に参詣に出かけた隙を窺って、まず後白河上皇の院御所である三条院という所を焼いて大内裏に移されました。主上(第七十八代二条天皇)も後白河上皇の近く(大内裏)に押し籠められました。通憲法師は逃れられないと思って、京を逃げ出しました。信西の子どもたちもやがて国々に流されました。通憲も才学があり、心聡い者でしたが、己の非(死罪を行ったこと)を知り、未萌(賢者は「未萌」=「表面化しない事項」を見ることができるらしい)の禍いを防ぐまでの智性を備えていなかったようです。我が子たちは顕職([地位の高い官職])・顕官に上がり、近衛次将(信西の五男藤原脩範は左近衛少将でした)などにもなし、参議(信西の長男藤原俊憲)以上に上る者もいました。こうして信西が失せた以上、信西も天意に背いたところがあったことは間違いのないことでした。清盛はこれを聞いて、道中より京に帰り上りました。信頼に味方する近臣たちの中に心変わりする人々があらわれて、主上(二条天皇)・上皇(後白河院)を大内裏からひそかに出されて、清盛の家(六波羅)に移されました。すぐに信頼・義朝らを追討するよう命じられました。清盛はほどもなく信頼にうち勝ちました。信頼は捕らわれて首を斬られました。義朝は東国を指して逃げましたが、尾張国で(義朝の家来であった長田忠致とその子景致に)討たれました。義朝の首は獄門に晒されました。
(続く)