さるほどに二の宮帰り入らせ給ふと聞こえしかば、法皇より御迎ひの御車を参らせらる。御心ならず、外戚の平家に囚はれさせ給ひて、西海の波の上に漂はせ給ふ御事を、御母儀も御乳母持明院の宰相も、斜めならず御嘆きありしに、今待ち受け参らせ給ひて、いかばかりらうたく思し召されけん。同じき二十六日、平氏の生け捕りども、鳥羽に着いて、やがてその日都へ入つて大路を渡さる。小八葉の車の、前後の簾を上げ、左右の物見を開く。大臣殿は浄衣を着給へり。日来はさしも色白う清げにおはせしかども、潮風に痩せ黒みて、その人とも見え給はず。されども四方を見廻らして、いと思ひ入れ給る気色もおはせざりけり。御子衛門の督清宗は、白き直垂にて、父の御車の尻にぞ参られける。涙に咽びうつ伏して、目も見上げ給はず、まことに深う思ひ入れ給へる気色なり。平大納言時忠の卿の車も、同じう遣り続けられたり。讃岐の中将時実も、同車に渡さるべかりしかども、現所労とて渡されず。
やがて二の宮(第八十代高倉天皇の第二皇子守貞親王)が京に戻られたと聞こえたので、法皇(後白河院)より迎えの車を参らせました。心ならずも、外戚([母方の親族])である平家に囚われて、西海の並みの上を漂うことになって、母儀(坊門殖子=藤原殖子)も乳母である持明院(守貞親王)の宰相(持明院基家=藤原基家)も、たいそう嘆いていましたが、また待ち受け参らせて、どれほど愛おしく思われたことでしょう。同じ二十六日、平家の生け捕りの者たちが、鳥羽(京都市の南区・伏見区)に着いてすぐその日のうちに大路を渡されました。小八葉の車([一般殿上人に広く用いられた車])の、前後の簾は上げられ、左右の物見([外を見るために設けた窓])は開かれていました。大臣殿(平宗盛。平清盛の三男)は浄衣([白布または生絹で仕立てた狩衣形の衣服])を着ていました。日頃は色白く美しくありましたが、潮風に痩せ色黒くなって、本人とも見えませんでした。宗盛は四方を見渡して、深く思い込んでいるようには見えませんでした。宗盛の子である衛門督清宗(平清宗。宗盛の嫡男)は、父の車の後ろに乗っていました。涙に咽びうつ伏して、目も見上げず、深く思い沈んでいるようでした。平大納言時忠卿(平時忠。清盛の義兄弟)の車も、同じく続きました。讃岐中将時実(平時実)も、同じ車で渡されるはずでしたが、現所労([病気中であること])との理由で渡されませんでした。
(続く)