一院仰せけるは、「義時が為に命を捨つる者東国に如何程ありなん。さすが朝敵と名乗りて後は何程の事あるべき」と、問はせ給ひければ、庭上に並み居たる兵士ども、「推し量り候ふに、いくばくか候ふべき」と申し上ぐる中に、庄四郎兵衛某と言ふ者進み出でて申しけるは、「色代申させ給ふ人々かな。怪しの者討たれ候ふだにも、命を捨つる者五十人・百人はある習ひにて候ふ。増して代々の将軍の後ろ見、日本国の副将軍にて候ふ時政・義時父子二代の間、公様の御恩と申し、私の心ざしを与ふること幾千万か候ふらん。なかんづく元久に畠山を討たれ、建暦に和田を亡ぼししより以来、義時が権威いよいよ重うして、靡かぬ草木もなし。この人々の為に命を捨つる者二三万人は候はんずらん。某も東国にだに候はば、義時が恩を見たる者にて候へば、死なんずるにこそ」と申せば、御気色悪しかりけれども、後には「色代なき兵士なり」と思し召し合せられたり。
一院(後鳥羽院)が申すには、「義時(北条義時)のために命を捨てる者が東国にどれほどいるというのか。さすがに朝敵と名乗った以上大したことはあるまい」と、訊ねたので、庭上に並み居た兵士たちは、「想像するに、どうせ大した数ではありますまい」と申し上げる中に、庄四郎兵衛某(庄高家?)という者が進み出て申すには、「色代([お世辞])の上手な者たちよ。身分卑しい者が討たれても、命を捨てる者の五十人・百人はいるものでございます。ましてや代々将軍の後見、日本国の副将軍である時政(北条時政)・義時(北条義時)父子二代のこと、公の恩と申し、私の心ざしを捧げる者は幾千万にもなりましょう。とりわけ元久(元久二年(1205))に畠山(畠山重忠とその子畠山重秀)を討たれ(畠山重忠の乱)、建暦(建暦三年(1213))に和田一族を亡ぼして(和田合戦)以来、義時(北条義時)の権威はますます高まり、靡かぬ草木もないと言います。この者たちのために命を捨てる者は二三万人はいるでしょう。わしも東国にいたならば、義時の恩に与かったことでしょう、死のうと思うに違いない」と申したので、後鳥羽院は機嫌悪くなりましたが、後には「お世辞を言わない兵士だった」と思い出されたのでした。
(続く)