はかばかしく仰せ合はらるべき人もなきままに、御心中に様々の御願をぞ立てさせ給ひける。世鎮まつて後、日吉社へ御幸なりたりしも、その時の御立願とぞ聞こえし。とかくして仁和寺に着かせ給ふ。この由仰せられしかば、御室大きに御喜び合つて、御座設ひ入り参らせて、供御御勧めなど、甲斐甲斐しくもてなし参らせ給ひける。保元に崇徳院の入らせ給ひしをば、寛遍法務が坊に移し参らせて、さまでの御心ざしもなかりき。崇徳院は鳥羽第一の御子、この上皇は第四、御室は第五の宮にておはしませば、いづれも同じじ御兄の御事なれども、さばかりいつき申させ給ひ、わづかの御つつがも渡らせ給はぬ御運のほどこそめでたけれと、人皆申しけるとかや。
後白河院は、相談する者もいないまま、心中にさまざまの願を立てました。世が鎮まった後に、日吉社(日吉大社。今の滋賀県大津市坂本にある)へ出かけたのも、その時の立願のためだと言われました。ともかくも後白河院は仁和寺に着きました。このことを知らせると、御室(仁和寺のことですが、ここでは仁和寺の検校、つまり最高責任者であった覚性入道親王のことでしょう)はとても喜んで、座敷を用意して、食事を勧めるなど、かいがいしくもてなしました。保元に崇徳院が居られた、寛遍法務の宿坊に移されましたが、これほどの厚意はありませんでした。崇徳院は鳥羽院の第一皇子で、後白河院は第四皇子、覚性入道親王は第五皇子(本仁親王)でしたので、皆同じ兄弟同士でしたが、このように同じく仁和寺に集まり、わずかの災難にも遭わなかったことは幸運なことだと、人は皆申しました。
(続く)