かく言ひしろふほどに、院の御悩み日々に重くならせ給ひて、八月六日、いと浅ましうならせ給ひぬ。世の重しにておはしますべき事の、かく敢へなき御有様、口惜しなど聞こゆるも斜めなり。大方、御本性も、なごやかにらうらうじく、御容もまほに美しう整ほりて、二十に三つばかりや余らせ給ふらん。若う盛りの御ほどに、御才なども、大和・唐土たどたどしからず、何事につけても、いと新しうおはしませば、世の人の惜しみ聞こゆる様限りなし。ただ暮れ惑へる心地どもなり。後堀川院とぞ申しける故宮の御果てだに過ぎず、またとり重ねて、諒闇の三年までにならん事を、いとまがまがしく由々しと、皆人思ふべし。御契りのほどの哀れさも、いとありがたくなむ。御禊・大嘗会なども、いとど延びぬ。ただここもかしこも、高きも下れるも、都も遠きも、島々も、涙に浮き沈みてぞ過ぐし給ひける。
そのようなことを話し合っている間にも、院(第八十六代後堀河院)のお悩みは日々に重くなられて、八月六日に、はかなくおなりになられました。世を領ろしめるべきお方が、こうしてあえなくお隠れになられることこそ、世の人々はとても残念に思われたのでございます。おおよそ、性格は、穏やかにして明るく、姿かたちもまことに美しく整われておられました、二十を三つばかり過ぎられたばかりでございました。若く盛りの頃でございました、才能も、大和(和歌)・唐土(漢文)に通じておられましたし、何事にも興味をお持ちになられますれば、世の人の惜しみようは限りないものでございました。ただ涙に暮れるほかございませんでした。後堀河院と申されましたが故宮(藻璧門院。後堀河天皇中宮、藤原竴子=九条竴子)の御果て([一周忌] )さえも済まないうちに、また重ねて諒闇([天皇・太皇太后・皇太后の死にあたり喪に服する期間])が三年に及ぶことを、たいそう不吉なことと、人は皆思われたのです。とともに契り([前世から定められた宿縁])の憐れを、ありがたいものと思われました。四条天皇(第八十七代天皇)の御禊([天皇の即位後、大嘗会の前月に賀茂川の河原などで行うみそぎの儀式])・大嘗会([大嘗祭=天皇が即位後初めて行う新嘗祭。に行われる節会])なども、さらに延ばされました。ただあちらもこちらも、身分の高きもそうでない者も、都から遠い者も、島々までも、涙に暮れて日々を過ごすばかりでございました。
(続く)