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「増鏡」藤衣(その15)

うち続き、かくのみ世の中騒がしく、天変もしきり、いとあはたたしきやうなれば、また年号変はりて、嘉禎かてい元年と言ふ。まことや、三月のすゑつ方より、洞院とうゐんの摂政殿重くわづらひ給ふ。故院の御位のほどより、大殿おほとのの、御ゆづりにて、関白と聞こえしが、御門をさなくおはしませば、この頃は摂政殿とまうすなるべし。御かたちも御心ばへもめでたくおはしましつるに、いと敢へなく失せ給ひぬれば、大殿おほとのの御歎き例へん方なし。二つぞなり給ひける。いと悲しくし給ふ姫君・若君など物し給ふをも、今は峰殿のみひとへにはぐくみ聞こえ給ひけり。摂政にも、大殿立ちかへりなり給ひぬ。かくて三度みたび政事まつりごとをさめ給ひぬるにや。北の政所の御父は、公経きんつね大臣おとどなれば、かの殿と一つにて、世はいよいよ御心のままなるべし。今年ぞ御色ども改まりぬれば、冬になりて御禊ごけい大嘗会だいじやうゑ行はる。




うち続いて、このように世の中は騒がしく、天変地異もたびたび起こって、たいそうあわただしい様でございますれば、また年号が変わって、嘉禎元年(1235)と言いました。ところが、三月の末頃より、洞院摂政殿(九条教実のりざね)が病い重らせて患われました。故院(第八十六代後堀河院)が帝位に就かれた頃より、大殿(九条道家みちいへ。教実の父)より位を譲られて、関白におなりになられましたが、帝(第八十七代四条天皇)が幼くございますれば、この時は摂政殿と呼ばれておられました。姿かたちもごりっぱでございましたが、あえなくお亡くなりになられましたので、大殿(九条道家)の嘆き悲しみは例えようもないものでございました。大殿の悲しみは二つ(藻璧門院さうへきもんゐん。第八十六代後堀河天皇中宮、藤原竴子よしこ=九条竴子と九条教実)におなりになられました。洞院摂政殿(教実)がたいそう可愛がっておられた姫君・若君がおられましたが、峰殿(九条道家)がすべてお引き取りになられてお育てになられたそうでございます。摂政には、大殿(道家)がお戻りになられました。こうして三度政治を治められたのでございます。大殿の北の政所([正室]。西園寺綸子)の父は、公経大臣(西園寺公経)でございましたので、公経大臣と力を合わせられて、世はますますお心のままでございました。今年は衣の色も改まりましたので、冬になって四条天皇(第八十七代天皇)の御禊([天皇の即位後、大嘗会の前月に賀茂川の河原などで行うみそぎの儀式])・大嘗会([大嘗祭=天皇が即位後初めて行う新嘗祭。に行われる節会])が行われたのでございます。


続く


by santalab | 2013-12-10 08:05 | 増鏡

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