白河院隠れ給ひて後、政を治らせ給ふ。御孫ながら御子の儀なれば、重服を着させ給ひけり。これも院中にて二十余年、その間に御出家ありしかど、なほ世を治らせ給ひき。されば院中の古き例には白河・鳥羽の二代を申し侍るなり。五十四歳おましましき。
白河院(第七十二代天皇)がお隠れになられた後は、鳥羽院(第七十四代天皇)が政治を行なわれました。鳥羽院は白河院の孫でしたが子のようなものでしたので(鳥羽院の生後間もなく母である苡子が亡くなったので、鳥羽院は祖父である白河院に引き取られて養育されたらしい)、鳥羽院は重服([喪服])を召されました。鳥羽院も院御所で二十年余り世を治められました。その間に出家なさいましたが、その後も世を治められたのです。院御所で政治を行われた(院政)のは古くは白河・鳥羽の二代のことを申します。鳥羽院は五十四歳でお隠れになられました。
(続く)