悪源太、左衛門佐をば討ち漏らし、鎌田に向かつてのたまひけるは、「郁芳門の戦はいかがあらん。いざや頭殿の御先仕らん」とて、打ち具して馳せ来たり、また真つ先にぞ進まれける。ここに鎌田が下人に、八町次郎とて、大力の剛の者、早走りの手ききあり。「馬にてこそ具すべけれども、中々徒立ち良かるべし。高名せよ」と言ひければ、一年も腹巻に小具足さしかためて、真つ先に進みたりけるが、敵の馬武者のはるかにさき立て落ちけるを、八町が内に追ひ攻めて、取つて引き下ろして、首を捕りたりければ、それよりして八町次郎とぞ言ひける。さればまたこの者、三河守の聞こゆる早走りの名馬に、両鐙を合はせて駆けられけるに、少しも劣らず追ひ付きて、兜の手返しに熊手をうちかけんうちかけんと、続ひて走りければ、頼盛も兜を打ち傾け打ち傾け、相知らはれければ、五六度はかけ外しけるが、終に手返しにうちかけて、ゑいやと引けば、三河守既に引き落とされぬべう見えられけるが、帯たる太刀を引き抜いてしとと切る。熊手の柄を手本二尺計り置きて、つんど切つて落とされければ、八町次郎仰けに倒れて転びけり。京童部これを見て、「あつぱれ太刀や。あつ、切れたり。三河殿もよつ切りたり。八町次郎もよつ駆けたり」とぞ感じける。頼盛は兜に熊手を切りかけながら、取りも捨てず、見も返らず、三条を東へ、高倉を下りに、五条を東へ、六波羅まで、からめかして落ちられけるは、中に、勇にぞ見えたりける。名誉の抜丸なれば、よく切れけるは理なり。
悪源太(源義平。義朝の長男)は、左衛門佐(平重盛。清盛の嫡男)をば討ち損じ、鎌田(鎌田政清)に向かって言うには、「郁芳門の戦いはどうなっている。さあ頭殿(源義朝)の先陣を取るのだ」と言って、太刀を持って急ぎ馳せて来ました。また陣の先頭に立ちました。ここに鎌田の使用人で、八町次郎という、大力で強く、早走り([足が速いこと])の者がいました。「馬に乗るべきではあるが、徒立ち([歩兵の戦い])の方がよいかもしれない。手柄を立てて名を上げよ」と言ったので、ある年に腹巻(簡単な鎧)に小具足([鎧の付属具。籠手、臑当てなど])を着けて、陣の先頭に立ちましたが、敵の馬武者がはるかむこうに立って逃げて行くのを、八町が追いかけ攻めて、敵を捕まえて馬から下ろし、首を取ってきたので、それから八町次郎と呼ばれました。そしてこの合戦に八町は、三河守(平頼盛。清盛の弟)が名に聞く足の速い名馬に乗り、早駆けしているところに、遅れることなく追い付いて、兜の手返し([吹き返し]=[兜の左右にあって耳のように反り返っている所])に熊手をかけようとして、走り続けました、頼盛は兜をずらして、捕まらないように、五六度は避けていましたが、とうとう八町は熊手を手返しにかけて、力を込めて引いたので、頼盛は馬から落とされると思われましたが、頼盛は身に付けた太刀を引き抜いて熊手を切ってしまいました。熊手の柄を二尺(一尺は約30cm)ばかり残して、一刀に切ったので、八町次郎は仰向けに倒れて転びました。京童部([京の若者たち])はこれを見て、「すごい太刀だぞ。一刀で、熊手を切ってしまった。三河殿(頼盛)もうまく切ったな。八町次郎もよく走ったぞ」と思いました。頼盛は兜に熊手を残したまま、取って捨てることなく、八町の方を振り返ることもなく、三条を東へ、高倉小路(平安京の東端を南北に通る路)を南に下って、五条を東に、六波羅まで、音をたてながら逃げて行きましたが、その姿は、りっぱに見えました。評判高い抜丸ならば、よく切れるのも当然のことでした。
(続く)