昨日まで朝恩に誇つて、余薫一門に及びしかども、今日は誅戮を被つて、愁嘆を九族に施す。朝に仕へて、楽を春花の前に開き、戒めを被つては、嘆きを秋の霜の下に顕はす。夢の富は、思えての悲しみなり。一夜の月はやく有漏不定の雲に隠れ、朝の咲は暮れの涙なり。片時の花、むなしく無常転変の風に随ふ。盛衰の理、眼の前にあり。生界の中に、誰人かこの難を逃るべき。さても堀河天皇嘉承二年に、対馬守源義親誅伐せられしよりこの方、近衛院の御代、久寿二年にいたるまで、すでに三十余年、天下風静かにして、民、唐尭・虞舜の仁恵に誇り、海内波治まつて、国、延喜・天暦の徳政を楽しみしに、保元に合戦あつて、洛中始めて騒ぎしをこそ、浅ましき事と思ひしに、いくほどの年月をも送らざるに、またこの乱れ出で来て、人多く亡びしかば、世すでに末になつて、国滅ぶべき時節にやあるらんと、心ある人は嘆き合へり。同じ二十九日公卿詮議あつて、このほど大内に兇徒殿舎に宿して、狼籍繁多なり。清められずして、還幸ならん事しかるべからざる由、議定ありき。
信頼(藤原信頼)は昨日までは朝恩を自慢して、余薫([先人の残した恩恵])は一門にまで及びましたが、今日は誅戮([死罪])を被って、愁嘆は九族([自分を中心に、先祖・子孫の各四代を含めた九代の親族])に広がりました。朝廷に仕えて、楽しは春花の前に開き、罰を受けて、悲しみを秋の霜の下に現しました。夢の富は、悲しみに変わってしまいました。一夜の月は早くも有漏([煩悩])不定の雲に隠れて、朝の咲([微笑])は暮れの涙となりました。わずかに咲いた花は、むなしく無常転変([物事が移り変わること])の風に飛ばされてしまいました。盛衰の理は、まさに信頼の目の前にあったのです。生界([衆生が生を受けている世界])の中にあって、いったい誰がこの難を逃れることができましょうか。堀川天皇の御時嘉承二年(1107)に、対馬守源義親(源義家の次男)が死罪になってから、近衛院の御代、久寿二年(1155)にいたるまで、すでに三十年余り、天下は穏やかで、人民は、唐尭([陶唐氏]=[中国五帝の一人])・虞舜([中国古代の伝説上の聖王])の仁恵([恵み])を喜び、国内も静まって、国は、延喜(醍醐天皇の御時)・天暦(村上天皇の御時)の徳政を楽しんでいました、保元に合戦があって(保元の乱(1156))、洛中([京])は騒ぎになって、嘆かわしく思っていましたが、わずかの年月も送らないうちに、またこの乱れ(平治の乱(1159))が起こって、人が多く亡くなると、世もすでに末となって、国も滅ぶ時期なのかと、心ある人は嘆き悲しみ合いました。同じ二十九日に公卿詮議があって、この戦では大内裏に兇徒([殺人・謀反などの悪行を働く者])たちが殿舎([御殿])に留まって、狼籍を数多く働いた。内裏を清めずに、還幸([還御]=[天皇が出先から帰ること])させるわけにはいかないと、議定([合議して事を決めること])がありました。
(続く)