安禄山が主君
玄宗を
傾けて、養母楊貴妃を殺し、天下を司りしかども、その子安
慶緒に殺され、安慶緒はまた、父を殺したるによつて、史
師明に害されて、ほどなく禄山が跡絶えぬ。
忠宗も行く末いかがあらんと、人皆申し侍りき。譜代の家人なる上、鎌田兵衛も婿なれば、
義朝の頼み給ふも
理なり。情けなかりし所存かな。知らぬは人の心なり。されば白氏文集、「天をも度つべく、地をも計りつべし。ただ人のみ防ぐべからず。海底の魚も、天上の鳥も、高けれども射つべく、深けれども釣つべし。ひとり人の心の
相向かへる時、
咫尺の
間も計る事
能はず。陰陽神変皆計りつべし。人間の
笑みは是怒りなりと言ふ事を」と書くも、今こそ思ひ知られたれ。
(安史の乱を起こした)安禄山は皇帝玄宗(唐の皇帝)を攻めて、玄宗は楊貴妃(玄宗の后)を殺し、天下の長になりましたが(安禄山は大燕国皇帝となった)、安禄山の子安慶緒に殺され、安慶緒は、父を殺したことで、史師明(安史の乱の指導者らしい)に殺されました、そして禄山の子孫は途絶えたのでした。忠宗(長田忠宗=忠致)の行く末もどうなることだろうと、人は皆話していました。譜代([代々])の家臣である上に、鎌田兵衛(鎌田政清)も娘婿でしたので、義朝が頼ったのももっともなことでした。情けのない者の考えというのでしょうか。分からないのは人の心なのです。白氏文集は、「天は一日をくり返し、地のことも推しはかることができます。ただ人の攻撃を防ぐことはできません。海底の魚も、天を舞う鳥も、高くとも射ることができますし、深い所にあっても釣ることができるのです。ただひとり人の心を目の前にしても、咫尺([距離が非常に近いこと])の間を計ることはできません。陰陽神変(天地間にあって、互いに依存・対立しながら万物を形成する陰・陽が起こす不可思議な変異)さえ知ることができるのです。しかし人が笑う時怒りを隠していることなど知るよしもありません」と書いていますが、今こそ思い知らされるのでした。
(「人を見たら泥棒と思え」の表現はともかく、「他人は信用ばかりせず、十分用心をすることが必要だ」は、真実なんだと思います。悪気の有無に関係なしに、己の事情を優先するのが人だと思います。哀しいことかもしれませんね。まさに、「正是水底魚。天邊鳥。高可射兮深可釣。惟有人心咫尺間咫尺人心不可料。」なのです。
却笑齊王用計深 恣行殺戮在邊庭
若知玄武他年事 悔不當初莫用心
)
(続く)