平大納言時忠父子も、判官の宿所近うぞおはしける。世の中はかくなる上は、とてもかうてもとこそ思はるべきに、大納言命を惜しうや思はれけん、子息讃岐の中将時実を招いて、「散らすまじき文ども一合、判官に取られてあるぞとよ。これを鎌倉の源二位に見せなば、人も多く滅び、我が身も命助かるまじ。いかがせん」とのたまへば、中将申されけるは、「九郎は猛き武士なれども、女房などの訴へ嘆くことをば、いかなる大事をも、もて離れずとこそ承つて候へ。姫君たち数多ましまし候へば、いづれにても御一所見せさせおはしまし、親しうならせ給ひて後、仰せ出ださるべうもや候ふらん」と申されたりければ、その時大納言、涙をはらはらと流いて、「さりとも我世にありし時は、娘どもをば、女御后に立てんとこそ思ひしか。
平大納言時忠卿(平時忠。清盛、建礼門院の兄弟)父子の殿は、判官(源義経)の宿に近くにありました。世の中がこうなった以上は、我が身がどうなっても仕方のないことと思っていましたが、時忠は命を惜しく思ったのでしょうか、子である讃岐中将時実を呼んで「人に知られてはまずい文を少しばかり、義経に取られてしまった。この文を鎌倉の源二位(源頼朝)に見せれば、多くの人が死に、わしの命も助からないだろう。どうすればよいものか」と言えば、時実が申すには、「九郎(義経)は勇ましい武士ですが、女房たちが訴え嘆くことを、どんな重大な事案であったとしても、あまり好みません。父には姫君たちが多くありますから、近いうちに姫君の一人を義経に逢わせて、親しくなれば、寛大な仰せが下るかもしれません」と答えました、時忠は涙をとめどなしに流して、「そうはいえどもわしがこの世にある限り、娘たちを、女御や后にしようと思っておるのじゃ。
(続く)