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「平治物語」頼朝遠流に宥めらるる事付けたり呉越戦ひの事(その5)

たとへば呉国に越王勾践こうせん、呉王夫差ふさとて、両国の王、互ひに国を合せんと争ふが故に、呉は越の宿世の敵なり。よつて越王十一年二月上旬に、臣范蠡はんれいに向かつて、『夫差はこれ我が父租の敵なり。戦はずして年を送る事、人のあざけりを取るところなり。今我向かつて呉を攻むべし。汝は我に代はつて国を治めよ』とのたまふに、范蠡が申さく、『越は十万騎、呉は二十万騎なり。小をもつて大に敵せず。また春夏は陽の刻にて、忠賞を行ひ、秋冬は陰の時にて刑罰をもはらとす。今年春の始めなり、征罰を致すべからず。隣国に賢人あるは敵国の憂へと言へり。いはんやかの臣伍子胥ごししよは智深うして人をなづけ、おもんはかとをうして主を諌む。これ三つの不可なり』と諌めければ、勾践重ねていはく、『礼にいはく、父のあたにはともに天をいただかず。いくさの勝負必勢の多少によらず。時の運に従ひ、時のはかりことにある者なり。これ汝が武略の足らざる故なり。もし時をもつて勝負をはからば、天下の人皆時を知る。 誰か戦に勝たざらん。これ汝が智慮の浅きところなり。伍子胥があらんほどは、討つこと叶はじと言はば、かれと我と死生知り難し。いつをか期すべき。汝が愚か三つなり』とて、つひに呉に向かふところに、越王討ち負けて会稽山くわいけいさんに引き籠ると言へども、敵ひ難きが故に、降人となつて、面縛めんばくせられ、呉の姑蘇こそ城に入つて、手かせ足かせ入られて、獄中に苦しみ給ひけるに、范蠡聞きて、肺肝を砕きけるあまりに、あじかに魚を入れて、商人のまねをして、姑蘇城に至つて、一こうの魚を獄中に投げ入れけるに、腹の中に一句を納めたり。その言葉にいはく、『西伯せいはく姜里きようり重耳ちようじ子推しすい、皆以為覇王。莫死於許一レ敵。』勾践この一句を見て、いや命を重んじ、石淋を舐めて本国にかへる時、行路にかまの踊り出来るを下馬して拝す。国の人これを怪しみけるを知つて、范蠡迎へに参りけるが、『この君は諌める者を賞じ給ふぞ』と申しければ、近国の勇士付き従うて、つゐに呉王を亡ぼして、国を合はせ果てぬ。されば俗のことわざには、『石淋の味を舐めて、会稽の恥を清む』と言へり。頼朝も命まつたくはと思へば、尼公にも付き、入道にも言へ、助かるこそ肝要なれ」とぞ申しける。




たとえば呉国に越王勾践(中国、春秋時代の越の王)、呉王には夫差(春秋時代の呉王)がいて、両国の王は、互いに国を一つにしようと争った、呉は越の宿世([前世])の敵だったのだ。よつて越王は十一年二月上旬に、臣である范蠡(中国、春秋時代末の越の忠臣)に向かって、『夫差は我が父租の敵である。戦わずに年を送っては、人に嘲笑われるのがおちだ。今こそわたしは向かって呉を攻めようと思う。お前はわたしに代わって国を治めよ』言ったが、范蠡が申すには、『越は十万騎、呉は二十万騎でございます。小勢を以って大勢に立ち向かうものではございません。また春夏は陽の時でございますれば、忠賞([忠臣に褒美を賜ること])を行い、秋冬は陰の時ですので刑罰を行うべきでございます。今は春の初めでございますから、征罰を行うべきではありません。隣国に賢人があれば敵は悲しむと言います。いわんや呉の臣である伍子胥(中国、春秋時代の楚の武人。父と兄が楚の平王に殺されたので、呉を助けた)は頭がよく人民を味方に付け、思慮深くて主(呉王)を諌めております。これら三つが理由です』と勾践を諌めたが、勾践が重ねて言うには、『儀礼ぎらい([中国の儒教教典の一])は、父の仇とともに天下にいるべきではないと言うぞ。戦の勝ち負けは勢の多少で決まるものではない。時の運に従う者が勝つ、時が決めることなのだ。お前には武略が足りないのだ。もし時に従って勝負すれば、天下の者は皆時を知ることだろう。 どうして戦に勝たないことがあろうか。これもお前の智慮の浅いところだ。伍子胥がいる限り、呉を討つことが叶わないと言うが、かれとわたしとどちらが長生きするかもわからない。いつ呉を攻めることができるというのだ。お前の愚かさはこの三つだ』と言って、最後は呉に向かったが、越王は討ち負けて会稽山(中国浙江省の紹興の南方にある山)に引き退き、結局敵わず、降人となって、面縛([両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出してさらすこと])されて、呉の姑蘇城([中国、江蘇省蘇州市近郊にある呉県の古名])の牢に入れられて、手かせ足かせを付けられて、獄中で苦しんだ、范蠡はこれを聞いて、肺肝([心の奥底])から悲しんで、あじか([かご、ざるの類])に魚を入れて、商人のまねをして、姑蘇城に参って、一匹の魚を獄中に投げ入れたが、魚の腹の中に一句を隠してあった。その言葉には、『西伯([周文王]=[中国古代の聖王])は姜里城に囚われ、重耳([晋文公]=[春秋時代の覇者])は子推([介子推]=[重耳の臣。亡命中飢えた重耳に自分の腿の肉を食べさせたそうな])とともに逃げましたが、みな覇王([武力で諸侯を統御して天下を治める者])となりました。死をもって敵に許されることのないように」と書かれていました。勾践はこの一句を見て、いよいよ命を大切にし、石淋([結石])を舐めて本国に帰る時、道にがま蛙が飛び出してきたので馬から下りて拝んだそうだ。国の者はこれを不思議に思ったことを聞いて、范蠡は迎えに参り、「この君(勾践)は諌める者を誉めるのです』と申したので、近国の勇士たちは付き従って、遂に呉王を亡ぼして、国を統一したのだ。そういうわけで世のことわざに、『胆石を舐めて、会稽の恥を晴らす』と言われている。頼朝も命をまっとうしようと考えて、尼公(池禅尼=平時子)にも近付き、入道(平清盛)にも口添えを頼んで、命を助かることこそ大切なことだったのだ」と言いました。


続く


by santalab | 2013-12-16 17:12 | 平治物語

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